西暦1800年

ヨーロッパ

社会
 ナポレオンによる第2次イタリア遠征がありました。これぞ歌劇(オペラ)「トスカ」の背景です。劇中に現れるマレンゴの戦いは6月17日から18日のことです(詳細別項)。

音楽
 68歳のハイドンはオラトリオ「四季」を作曲中です(1799〜1801)。また、この年ハイドンの妻マリア・アンナが亡くなっていますが、その日付の署名付きのハイドンの遺書が残されています。そこには、彼がもし再婚するとしたら、その相手は現在不倫中の若い歌手(1779年に出会ったときは19歳で、すでにハイドンと同僚のヴァイオリン奏者と結婚していました)しかないこと、自分の死後彼女に年金を与えること等が書かれていました。

 ベートーヴェンの交響曲第1番が初演されています。ベートーヴェンが1803年作曲の交響曲第3番を当初ナポレオンに献呈する予定であったのを、ナポレオンが皇帝に即位したと聞くや彼も単なる野心家だったのかと失望し、献呈を取りやめたという話は、多少の尾ひれを付けながら世に知れ渡っています。

 神童と呼ばれた稀代の名ヴァイオリニスト、パガニーニですが、1800年にジェノヴァを出てから1805年にルッカの宮廷楽師になるまでどこで何をしていたのかまったく知られていません。そこで、フランスはパリでとんでもない噂が広がったことがあります。ジェノヴァからある少女と駆け落ちしたパガニーニは彼女の心変わりをしるや、弓を持つ手を刃物に持ち替え、逃げる彼女を殺してしまい、そのためパドヴァの牢獄に入れられていた、というのです。噂はさらにいいます、彼はヴァイオリンを牢に持ち込むことを許され、日がな一日練習に明け暮れたため超絶技巧を会得するに至ったのだ、そして、湿気の多い牢の中で弦が一本また一本と切れていき、最後に残ったのがG線だったのでG線一本で曲を弾く妙技をマスターしたのだ、さらには、そのG線こそ、自ら手に掛けて殺した愛しい少女の体内から取り出した腸から作られたのだ、と、ここまでくると悪のりというよりかなり悪意の込められた噂です。

 フランス在住のイタリア人作曲家・ケルビーニが歌劇「二日間」を初演しています。
当時流行った脱走劇ですが、これもフランス革命前後の混乱した世相をあらわしているのでしょう。またこの主題は歌劇「トスカ」にも通ずるところがあります。さても歌姫トスカはいったいどんな曲を歌ったのでしょうか?サルドゥーの原作によるとパイジェットの「ニーナ」でデビューし、その後、スカラ座、サン・カルロ座などを総なめにした名歌手ということですが...。

美術
 後のナポレオン皇帝の主席画家ジャック・ルイ・ダヴィッドら、形式を重んじる新古典主義の画家たちが活躍する一方、ドイツはドレスデンのフリ−ドリヒらが主情的な表現を重んじるロマン主義絵画を世に送り始めています。
サルドゥーの原作によれば、カヴァラドッシは若い頃をパリで過ごし、ダヴィッドの主宰する画塾に入門したことになっています。ですから彼は新古典派の系譜に属する画家であったのでしょう。

 スペインのゴヤが「着衣のマハ」「裸体のマハ」を描いたのはこのころです。ただし、これらの有名な絵の正確な制作年代は明らかになっていません。明らかに1800年に描かれた主要な作品としては、「カルロス4世の家族」があります。先立つ1793年、ゴヤは大病を患い聴力を失い人との関わりをたつようになりました。このころ、「理性が眠れば怪物たちが生まれる」に代表されるような幻想的な絵画を描いています。彼が心の中の闇を描く近代幻想絵画の祖と目されるゆえんです。しかし、1793年頃には彼は宮廷画家に復帰しました。1800年頃は彼にとって生涯で最も輝かしい時期に当たります。1809年、ナポレオン軍がスペインを占領するまでは。

文学
 ゲーテは小説「よい女たち」、戯曲「パレーオフロンとネオテルペ」、詩「比喩」「ソネット」等を発表しています。また、戯曲「ファウスト」を執筆中です。この作品にインスピレーションを得、歌劇ではグノーの「ファウスト」、ボイトの「メフィストフェレ」、器楽曲ではリストの「ファウスト交響曲」、ワグナーの序曲「ファウスト」、声楽曲ではベルリオーズの劇的物語「ファウストの劫罰」、シューベルトの歌曲「糸を紡ぐグレートヒェン」「テューレの王」等、数多くの名曲が生まれました。ちなみに、ゲーテの「ファウスト」の冒頭、ファウストによる最初のモノローグのなかにノストラダムスの予言書(あるいは占星術書)に関する言及があるのは知る人ぞ知る事実です。

 シラーは「劇詩ヴァレンシュタイン」3部作を出版しています。また、戯曲「オルレアンの処女」の執筆を開始しています(脱稿は翌年)。

 同じくドイツではノバーリスがドイツ・ロマン派の傑作「青い花」を書いています。ゲーテの教養小説「ウィルヘルム・マイスター」に対抗して書いたとのことです。

 若きスタンダールが兵士としてナポレオンの第2次イタリア遠征に参加しています。彼の中の英雄ナポレオン崇拝はやがて名作「赤と黒」を生みます。「赤」とはナポレオン軍の軍服を指すとされています。また、イタリアの風土・歴史は彼を強く引きつけました。「パルムの僧院」はそんな彼のイタリア偏愛から生まれました。

 「ゾロエと二人の侍女」なる小説が匿名で出版されました。登場人物の名はいずれもボナパルト、タリアン、バラスら執政政府要人の名をもじったもので、彼ら主人公達が淫蕩の限りを尽くすというものです。今ではこの作品はフランス革命期に多く現れたパンフレット職人の手になる戯文であるとされていますが、かつてこの作品を1801年のサド侯爵逮捕と関係づける説が流布していました。すなわち、サドは「ゾロエ」による政府風刺の廉で逮捕されたのだ、というのです。サドの逮捕は実際には彼の作品「新ジュスティーヌ」を巡る醜聞が原因でした。サドの名は「サディズム」の名と共に現在まで伝わっています。彼がフランス革命勃発時にヴァスチーユ牢獄に投獄されていたのは有名です。一説では、彼がトイレ用の管をメガホン代わりにし、ヴァスチーユの窓から前に集まる民衆に向かって王制の腐敗と人間の尊厳を説いたことがフランス革命のきっかけになった、というのですが、これは革命の世に生き延びるべく貴族でもあった作家が作り上げたでっちあげのような気もします。