ヨハン・シュトラウスU世
ワルツ「美しき青きドナウ」


−華麗なワルツに秘められた”帝国の黄昏”−

(再生不可) MIDIプラグインを用意してください。

(BGM) ワルツ「美しき青きドナウ」(ピアノ版)
(データ作成者) 佐々木 茂 様 ( shigeru-s.sasaki@nifty.ne.jp )

データ作成者のご厚意により転載させていただいております。



ヨーロッパ中が戦乱に明け暮れていた19世紀、共に中部ヨーロッパのリーダーを自負し、しのぎを削り合ってきたオーストリアプロイセン(*)。表面上はプロイセンのそれと互角に見えても、実はじわじわと衰えつつあったオーストリアの勢威は、ビスマルクがプロイセンの指導者になった1862年を一里塚として、本格的に衰退の軌道を滑り出すことになる。
「プロイセンに明るい未来をもたらすもの、それは”鉄と血”である!」と叫び、議会さえも無視して軍備拡張にいそしんだ、この「鉄血宰相」は、一方で老獪な外交手腕を駆使して徐々にライバルを追いつめていくことも忘れていなかった。気がつけば政治的にも、経済的にもすっかり包囲されてしまっていたオーストリアは、否応なしにプロイセンとの戦争へと引きずり込まれていった。
こんな風に始まった戦争だったからか、オーストリアは数では敵方に勝っていたにも関わらず、最初から苦戦を強いられ、天下分け目の「ザドワの戦い」においても、プロイセンの猛将モルトケに粉々に叩きつぶされてしまう。歴史家が「普墺(=プロイセン・オーストリア)戦争」とも、「七週間戦争」とも呼ぶこの一連の武力衝突でオーストリアは、「鉄」のプロイセンの前に「血」の敗北を喫し、1866年7月、放火はあっけなく止んだ。

(*)オーストリアプロイセン

オーストリアは19世紀当時、(いろいろ変遷はあったものの)ハンガリーなどの周辺国を併合又は支配していた強大な帝国だった。
そのため、オーストリア・ハンガリー二重帝国ともいわれていた。
その一方、プロイセンは、オーストリアのちょうど北側に隣接する、現在のドイツ、ポーランドの北部地域一帯に存在していた国である。ドイツが現在のような単一の国ではなく、多くの小王国に分かれていた時代には、経済、軍事の面で卓越した強国であった。

    



(左の切手)


1975年 オーストリア共和国で発行された
ヨハン・シュトラウスU世 生誕150年 記念切手

帰還してくる負傷兵と、真新しい墓碑ばかりが増えていくこの直後のウィーンを、何とか音楽で明るくできぬものかと考えたヨハン・ヘルベックは、ヨハン・シュトラウスU世新しいワルツの作曲を依頼した。ヘルベックはウィーン男声合唱団の指揮者だったから、程なく初演された新作も、男声合唱をオーケストラが伴奏する形を取っていたが、好評は得られなかった。打ちひしがれる祖国を激励すべく、愛国心に満ち満ちた歌詞を採用してみたものの、その詞は力強いというより粗野勇壮というよりは下品、といった程度の代物だったのだ。本来はすばらしいはずの男声合唱の和声さえ、こういった条件下ではマイナスに作用したことだろう。

だが曲とシュトラウスには、その後まもなく名誉回復のチャンスが巡ってくる。初演から3ヶ月後の1867年5月、パリの万国博の会場で、世界中から集まった賓客の前に披露されたたとき、曲は例の合唱パートを取り除かれ華麗なオーケストラ曲として装いも新たに鳴り響いたのだった。戦争が生んだ不運な小曲が、世にも優美な不滅の名作「美しき青きドナウ」に生まれ変わった瞬間だった。



(右の切手)


1967年 オーストリア共和国で発行された
「美しき青きドナウ」 初演100年 記念切手    
   





「普墺戦争」に敗れたオーストリアは、戦後賠償を巡ってプロイセンに恩を着せられたことも災いし、以降ヨーロッパ社会での自らの地位を更に低下させた「美しき青きドナウ」河は、その水面にオーストリアという名の沈みゆく巨大な夕陽を映しながら、この後の世を流れていくのであった・・・


【追  記】

後にこのワルツには、別の作詞家(詩人)によって歌詞が付けられこの歌詞が付けられた合唱付きのワルツ「美しき青きドナウ」は、現在も(オーケストラ版と同様に)よく演奏されております。
今回 当団で演奏されるワルツ「美しき青きドナウ」も、「愛国歌」だった初演時のものではなく、上記の歌詞に基づいた合唱を付けております



参考文献:
世界史大系・第12巻「自由主義と国民主義」
(石田英一郎、市古宙三ほか 編,誠文堂新光社 刊)
ラルース世界音楽作品事典
(遠山一行、海老沢敏 編,福武書店 刊)

文:上柿泰平(パーカッション)