(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

「第九」演奏の歴史

〜日本編〜

<ドイツ人捕虜らによる日本初演(1918年6月1日)

 1918年6月1日徳島に収容されていたドイツ人捕虜たちが編成したオーケストラ、徳島オーケストラの第2回演奏会で、ベートーヴェンの「交響曲第九番」が演奏されました。この演奏こそが、本邦における「第九」の初演とされています。
こちらの作曲経緯紹介ページでも触れております。)

 本番に先立つ5月31日には、のちに大阪外語大の教授になったヘルマン・ボーデル水兵が「ベートーヴェンの第九交響曲に添えて」と題する講演を行っています。
そして、5月31日が公開ゲネプロ
(ゲネラル・プローベ=総練習)6月1日が本番、ということです。

 指揮沿岸砲兵隊軍楽隊長ハンセンで、80人編成の強力な合唱団の友好賛助出演を得ての演奏でした。

 この演奏会のことは長い間忘れられていたのですが、豊橋技術科学大学の富田弘教授と徳島県立徳島中央高等学校の林啓介教諭の20年がかりの調査により明らかになりました。

 初めての「第九」演奏はかなりの好評を博したらしく、8月には再演されています。その様子を音楽愛好家の徳川頼貞侯爵(1892-1954:紀伊徳川家 第16代当主)が著書「蒼亭楽話」の中に記しています。
もっとも、この再演で演奏されたのはハイドンの「驚愕交響曲」の1、2楽章とベートーヴェンの「第九交響曲」の1楽章だけでした。

 徳島オーケストラの資料の大部分と、指揮者ハンセンとオーケストラの写真は、鳴門市のドイツ館に保管されているそうです。大鳴門橋からすぐの所ですので、四国以外の方も、四国へ渡られた際には是非お立ち寄り下さい。
(筆者は前を素通りしただけで、まだ入ったことがないのですが。)

<日本人による初演(1925年11月29日)

 日本人による「第九」の初演は、1925年11月29日と30日の両日に行われました。東京音楽学校(後の東京芸術大学)第48回演奏会でのことです。演奏をしたのは、講師生徒あわせて200余名。指揮をしたのはドイツ人のグスターフ・クローン。もともとヴァイオリニストで、ニキシュやリヒャルト・シュトラウスの指揮するベルリン・フィルと全世界を回った経歴の持ち主です。

 演奏会は大盛会で、開演の数時間前には入場希望者の列が音楽学校の門を溢れ、となりの美術学校の前まで続いていたといいますし、奏楽堂の中では、溢れた聴衆が両側の通路まで満たしていたといいます。好評につき、同年の12月6日には、早々と再演が行われています。

 その次に「第九」が演奏されたのは、ベートーヴェンの没後100年にあたる、1927年のことでした。これがプロのオーケストラによる「第九」の本邦初演になります。オーケストラは、現在のNHK交響楽団の前身にあたる、新交響楽団。指揮はヨーゼフ・ケーニヒ、独唱者は松平里子、斎藤英子、木下保、内田栄一、合唱は日本音楽学校です。この演奏会は、4月28日から5月3日にかけて、4回行われました。

 その後、日本における「第九」の演奏は、新交響楽団の独壇場となります。1928年から1935年までに、近衛秀麿の指揮で11回(1928年12月18日および19日に「第九」が演奏されています。12月における本邦初の「第九」の演奏であるとともに、日本人の指揮者による初めての「第九」です)、1936年には貴志康一の指揮で2回、1937年から1941年までにジョセフ・ローゼンストックの指揮で10回。1942年には日本交響楽団と改称した同オケを山田和男(後の山田一雄)が指揮して、12月26日と27日の両日に演奏会を開いています。

<関西初演(1936年11月17日)

 新響(N響)により、東京で第九が次々と演奏されている中、関西における「第九」の初演が行われました。1936年11月17日京都宝塚劇場でのことです。指揮はエマヌエル・メッテル、オーケストラは京都帝国大学交響管弦楽団(現・京都大学音楽部交響楽団)、合唱は大阪音楽学校合唱団でした。
その後、同オケは「近衛(秀麿)版第九」も演奏していますが、残念なことに数年前の火災でこの楽譜は焼失しました。
(筆者は京大オケの出身で、先にも触れました、故・山田一雄先生にも振っていただいた経験があるのですが、関西シティフィルハーモニー交響楽団にも京大オケ出身者は何人も在籍しています。その中には、「近衛版第九」の経験者もいて、この火事のことは大いに悔しがっています。)

<第二次大戦後の演奏と”年末の第九”(1948年以後)

 新響(N響)以外のプロのオーケストラが「第九」を取り上げるようになるのは第二次大戦後のことでした。
1948年には近衛秀麿の指揮で東宝交響楽団(東京交響楽団の前身)が、また、朝比奈隆の指揮関西交響楽団が「第九」を取り上げています。
(ついでながら宣伝いたしますに、朝比奈隆先生も京都大学音楽部交響楽団のご出身です。先に触れましたメッテル先生の薫陶を受け、一旦阪急電鉄に入社後、音楽の世界に戻ってきたという変わった経歴の持ち主です。)

 12月に「第九」を演奏する、いわゆる”年末の第九”が恒例化したのは、1947年、レオニード・クロイツァー指揮の日本交響楽団が12月9日、10日、および13日に演奏して以来のことです。その後、日本交響楽団および後身のNHK交響楽団では毎年のように12月に「第九」を演奏しています。

この習慣が生まれた原因は、

「第九」をやるとお客さんが入る → 従って、おカネになる
ということのようです。

 アマチュアの合唱団が「第九」を盛んに歌うようになってきたのは1960年代以降のことです。このころから日本のアマチュア合唱団の実力は「第九」という難曲を歌えるほどに向上してきたのです。合唱団の人たちも年に一度はこの難曲に挑戦してみたいと思うようになってきました。
そして、1983年の年末に、大阪に1万人以上の合唱による「第九」が出現しました。また、「すみだ第九を歌う会」は、1985年2月22日に、ハイデルベルク大学の創立600年記念祭に招かれ、ハイデルベルク交響楽団とドイツ・バッハ協会合唱団とともに、石丸寛の指揮で「第九」を演奏しています。
この時に参加したのは185名ですが、最高齢は85歳の男性で、さらに、芸者衆が3人混ざっていて、現地の人たちの関心を得たと言うことです。
「歌う会」は、「Deine Zeuber binden wieder, was die Mode streng geteilt」ドイツ語発音を、「台寝 津会うベル ビン出ん微出る バス出 詣で 酒取れん 下駄いると」日本語に音訳するようなこともやってのけています。
(筆者としては、こちらの方が覚えにくいのですが。)

 我が国で年末に「第九」を歌う人口は、20万人を越えると言います。これは世界でも異例のことで、外国の指揮者が来日して、この事実を知ると、必ず驚きます。
わが関西シティフィルハーモニー交響楽団のマエストロ(第33回定期演奏会当時の常任指揮者)、ズラタン・スルジッチ氏も例外ではありません。

ヨーロッパでは「第九」は音楽祭の締めくくりなどで演奏されることが多い
ようです。また、ドイツの多くの都市で年末に締めくくりに「第九」を演奏する習慣はあるようですが、日本のように何度も演奏することはないようです。

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