(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

「第九」演奏の歴史

〜海外編〜

<初演からベートーヴェン存命中の演奏(1824年〜1827年)

 1824年5月7日ウィーンケルントナー・トーア劇場において、ベートーヴェン作曲交響曲第九番は作曲者自身の指揮により初演されました(作曲者以外にも2名が指揮にあたってたといいます)。初演は大成功でした。初演後の会話帳を見ると、聴衆が第二楽章が終わったときにも喝采して演奏が中断され、アンコールまで求められたこと、演奏後に5回も万歳がかかって警察官が制止したこと、などが記されています。また、聴衆の大拍手に気づかず総譜を見つめていたベートーヴェンのために、アルト歌手のウンガーが肩に手をおいて(ソプラノのゾンタークの方だった、という証言もあります)聴衆の方に向けさせた、という逸話も残されています。

ケルントナー・トーア劇場
「第九」初演の地
ケルントナー・トーア劇場
(王立帝立宮廷劇場)

 その同じ年の5月23日、今度は同じウィーンレドゥテンザールの大ホールで「第九」の再演が行われました。ところが、今度は客席が半分も埋まらなかったのです。この差はいったい何なのでしょう?

 この日はとても天気が良かったので、みんな郊外に出かけてしまったのだ、と言う説もありますが、どうも言い逃れのような気がします。

 演奏会のプログラムにロッシーニ(イタリアのオペラ作曲家:1792-1868)のアリアを入れたことが、熱狂的なベートーヴェンファンの感情を逆撫でしたのだ、という意見もあります。当時ウィーンではロッシーニ旋風が巻き起こっており、ベートーヴェン自身はこのことを苦々しく思っていたのでした。一時期はそんなウィーンに嫌気がさし、ベルリンでの「第九」初演を考えたほどでした。そんなわけですから、プログラムにロッシーニの曲を入れるということが、卑屈な妥協策に見えたというのです。

 しかし、結局のところ、当時のウィーンの聴衆に「第九」という曲は支持されなかったのでしょう。評論家たちも合唱の入った交響曲という妙な代物をさんざんこき下ろしました。作曲者自身、純粋器楽による終楽章を書き直そうかと考えていたほどです。

 では、初演がああも熱狂的に受け入れられた理由は何なのでしょう?それに対する答えとして、この演奏会でベートーヴェンがずいぶんと久しぶりに聴衆の前に姿を現した、ということをあげる人もいます。つまり、聴衆というよりはベートーヴェンを見に来た観衆だったというわけです。

 再演の後、ベートーヴェンの生存中は、「第九」がウィーンで演奏されることはありませんでした

 オーストリア国外においては、その後もしばしば「第九」は演奏されています。1825年にロンドン初演、1837に再演、1825年ドイツのアーヘンで初演(ただし2楽章を省略)、1826年にライプツィヒおよびベルリンで初演、といった具合です。しかし、どの演奏会も成功であった、という記録はないのです。どうも、ベートーヴェン愛好家の間でこの大曲に対する期待と失望が微妙な綱引きをしているような状態だったようです。

 結局のところ、当時の指揮者たちはこの難解な総譜を正しく理解できなかったのです。そんななかで、リストやワグナーは「第九」をピアノ曲に編曲をしています。そしてそれは、作曲当時の楽器の不備等による制約により浮かび上がってこなかった旋律を丹念に拾い上げ、作曲家の頭の中で流れていたメロディーを復元する努力の始まりだったのです。

<ベートーヴェン死後の演奏(1831年〜)

 管弦楽による「第九」の復活は意外なところで成されました。一人の指揮者が、まさに執念で難解なスコアを解読し、演奏会にこぎ着けたのです。その人の名は、フランソワ=アントア−ヌ・アブネック(仏:1781-1849)といいます。演奏はパリ音楽院管弦楽団、演奏会が開かれたのもパリ1831年の3月のことでした。演奏会に向けては、実に3ヶ月も練習を重ねたというのです。そして、練習を始める前にアブネックは3年にもわたってスコアを研究しています。

 アブネックの「第九」は最初から華々しい成功を収めたわけではありませんでした。しかし、1,2年に1回ずつ演奏会を繰り返し、着実に評価を得ていきます。ベルリオーズが1834年の演奏会を、リヒャルト・ワグナー(独:1813-1883)が1840年の演奏会を聞いていますが、二人ともアブネックの「第九」に大きな感銘を受けました。そして、ベルリオーズは1852年、ロンドンで、ワグナーは1846年、ドレスデンで、「第九」を指揮して、大成功を納めます。

リヒャルト・ワグナー
リヒャルト・ワグナー
(独:1813-1883)

 さて、その後ワグナーは何度か「第九」に関する論文を書いています。この論文に記された考え方が、その後の「第九」演奏のスタンダードになっていくのでした。

 ワグナーの解釈によると、ベートーヴェンはピアノの名手であったので、ピアノというひとつの楽器であらゆる効果を表現する事ができたため、オーケストラにもそれを求めた、というのです。表現を変えるには楽器の重ね方を変えればいいのにそれをしなかったので、従来の演奏ではメロディーが浮き上がってこず、混沌とした演奏になってしまうのです。

 そこで、ワグナーはメロディーが隠れがちになる部分では楽器を重ねて、音楽の流れがわかりやすくなるようにしました。例えば、終楽章のプレストで、元の楽譜のままではトランペットしか聞こえなくなるので、木管にも旋律を吹かせています。

 弦楽器に関しても手を加えています。ベートーヴェンはヴァイオリンに加線4本のイ音以上の音を弾かせないようにしていたので、メロディーの途中でオクターブ下に飛ぶ部分があります。このような部分でワグナーは旋律の流れを重視して、オクターブ飛ばずにそのまま上に行くように直しています。

 ワグナーはまた、テンポにも手を加えました。「素朴的」なモーツアルトと違い、「感傷的」なベートーヴェンでは、同じアレグロであっても内容の変化に従って微妙にテンポを変えるべきだ、というのです。

 ワグナーに続く重要な人物は、元ワグナーの信奉者で、後に袂を分かったハンス・フォン・ビューロー(独:1830-1894)でした。1880年にザクセン=マイニンゲンの公爵ゲオルク二世のオーケストラの指揮者に迎えられた彼は、ゆっくりと時間をかけて練習を積み重ね、ベートーヴェンの交響曲全曲を理想どおり演奏できるように訓練していったのでした。

ハンス・フォン・ビューロー
ハンス・フォン・ビューロー
(独:1830-1894)

 ビューローが風変わりな人物であったことを伝える話はたくさん残っています。彼が舞台に上がるとき、演奏の前に長々と解説をしたといいます。また、一日の演奏会で「第九」を二度演奏したこともあるのです。この時の演奏前、楽屋を訪れたリヒャルト・シュトラウスブラームスに向かい、「君たち、「第九」を聴きに来たのかい。「第十」の作曲家はここにいる」と、ブラームスの交響曲1番について述べた話は有名です。

 ビューローの演奏はワグナーにも増して数多くの独自の解釈を加えています。原譜にないクレッシェンド、デクレッシェンドを数多く書き加えさせ、楽器によってダイナミクスに差を付けたりしています。終楽章の冒頭では、トランペットにメロディーを吹かせています。ベートーヴェンの時代はバルブが発明されていなかったから分散和音で書かれているが、実際にはメロディーを吹かせたかったのだ、という解釈からです。また、弦楽器のボーイングを細かに指定し、浮き立つべき所が浮き立つように工夫しています。ビューローの練習では、まず弦楽器と管楽器にわけて、弦楽器の楽譜にボーイング記号を記入させるところから始まったと言います。

 ワグナーからビューローという流れの中で、ベートーヴェンの総譜にあったあらゆるメロディーはその存在を主張するようになっていきました。しかしそれは、よくいえばロマン的、悪く言えば非常にねちっこい演奏でした。当然それに反する動きも出てきます。その動きの旗手となったのが、ワインガルトナーでした。彼は自著「ベートーヴェンの交響曲の演奏に対する助言」の中で、ビューローを痛烈に批判しています。

 マーラー独自の編曲により「第九」を演奏し、物議を醸しています。この頃、19世紀の終盤から20世紀初頭には、リヒャルト・シュトラウスメンゲルベルクといった大指揮者たちが次々に第九を演奏するようになります。

リヒャルト・シュトラウス
リヒャルト・シュトラウス
(独:1864-1949)

ウィレム・メンゲルベルク
ウィレム・メンゲルベルク
(蘭:1871-1951)

 今日では第九は全世界の主要なオーケストラのレパートリーになっています。しかし、楽譜の問題はいまだ解決されたわけではなく、これは永遠に続く問題といえるでしょう。そんな中、最近では古楽器によるベートーヴェン演奏の運動ベートーヴェンの自筆譜や初演譜等による出版譜の見直しの動きが起きており、新たな展開を見せようとしています。

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