(C)関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

ベートーヴェン・交響曲第9番
−作曲の経緯−

 1785年に書かれ、翌年に出版されたJ.C.F.シラー頌詩(ほめたたえる詩)「歓喜に An die Freude」は、たちまちに26歳のベートーヴェンを虜にした。フランス大革命をほんの数年後に控えた「市民革命の時代」の空気を存分にすい、詩のイメージは青年作曲家の胸の裡で大きく育っていった。やがてごく自然にベートーヴェンは、この詩に発送の出発点を持つ曲、そしてそれに曲をつけた歌曲の作曲を志す。それらは、これ以前からの彼の宿願であった「合唱でしめくくられる交響曲の作曲」「ニ短調の交響曲の作曲」の両者と共に、これ以後のベートーヴェンの創作の大目標となった。

 「第9」中で最もポピュラーなメロディ「よろこびのうた」の原形とされるものは、早くも1795年作曲の「愛の答え」(ビュルガー作詩)という歌曲に現れている。この旋律はその後も1808年作の「ピアノ、合唱と管弦楽のための幻想曲・作品80」(クフナー作詩)や、1810年作の歌曲「小さな葉、小さな木の実」(ゲーテ作詩)といった作品のなかに繰り返し登場することになる。

 一方、合唱でしめくくられる交響曲の作曲も、ベートーヴェンの心の一角を占めつづけてきた。交響曲第6番「田園」作品68(1807〜08年作)には当初、終楽章を神への感謝の合唱曲とするプランがあったこと、すでに着手していた9番目の“ニ短調の”交響曲(のちに作曲を放棄、今日聴かれる「第9」とは別の曲)につづく「第10」交響曲に合唱を導入するつもりであったことが知られている。「第9」は最初、器楽のみによる交響曲として構想されていたのだ。1817年にはついに、今日「第9」として知られているニ短調の楽曲の下書きに着手するが、ほどなく宗教音楽の大作「ミサ・ソレムニス」作品123(1818〜23年作)に時間をさかねばならなくなったため、中断の憂き目を見た。

 ロンドン・フィルハーモニー協会から舞いこんだ交響曲の作曲依頼がきっかけとなって、「第9」の作曲は1822年に再開され、翌23年の暮れには第3楽章までが完成した。終楽章をどのようなものにするかは最後まで迷い抜いたが、最終的には、「第10」に使うつもりであったシラーの頌詩による合唱のついたオーケストラ曲をそれに転用することを決意し、ベートーヴェン最後の交響曲は1824年に完成をみた。彼は自らの青年時代からの宿願を、一篇の大交響曲として結実させたのだった。


 この交響曲の世界初演は完成と同じ年、1824年の5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場で実現した。日本初演は大正13年11月29日、グスタフ・クローン指揮東京音楽学校管弦楽団、合唱団、ソプラノ長坂好子、アルト曽我部静子、テノール船橋栄吉、バリトン沢崎定之によってなしとげられたが、「大正13年」は西暦では1924年であるから、完成・初演からちょうど100年後に日本初演が成ったことになる。
 また、この日本初演に先立つこと6年前、大正7(1918)年6月1日に、当時の徳島県板東町(現在の鳴門市)にあった「板東俘虜収容所」に収監されていたドイツ人将兵たちによって「第9」が演奏されたとの“伝説”がある(註1)


(註1)板東俘虜収容所

第1次世界大戦(1914〜18)中、日本とドイツは中国の青島で交戦したが、その戦いで降伏してきたドイツ人将兵たちを収監するために、日本国内に設けられた6ヶ所の収容所のひとつが「板東」であった。
所長を務めた陸軍大佐・松江豊寿
(1872〜1955)の「博愛の精神と武士の情けをもって」との方針のもと、この収容所ではスポーツ、演劇、新聞発行などの文化活動が盛んにくりひろげられ、殊に音楽は複数のオーケストラ、吹奏楽団、合唱団、マンドリンアンサンブルが結成されるほどの隆盛をみた。
大正7年6月の「第9」はそのなかの「トクシマ・オルケスター」と80名ほどの男声合唱、4人の男声ソロ歌手(!?)によって演奏されたといわれる。

なお、それらの様子は2005年から2006年にかけて「バルトの楽園」の名で映画化され(2006年6月17日封切)、”主人公”の一人である松江豊寿所長役を松平健が演じた。