(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

ベートーヴェン 交響曲第9番
− 第3節の私的解釈 −


この節では、前半部に、全ての生物に「歓喜」が与えられ、善いものや悪いもの全てが「薔薇色の跡」を付けるとあり、後半部では「歓喜」によって「口づけ」「葡萄(ぶどう)」「死の試練にある一人の友」が与えられ、虫に与えられる「快楽」と神の御前に立つケルブ(智天使)の存在が書かれております。

この節は前述の通り、この第九の歌詞の中で一番わかりにくいところだと思われます。
解釈についても諸説ありますが、とりあえず私はこう考えています。


1.前半部

ここは、第九の日本語の歌詞の一つである「ものみな歓喜を 天より受けて 善し悪しへだてず 幸に輝く」が、一番意味にかなっているような気がします。

つまり、歓喜(ここでは無差別に与えられる自然の恵み?)は、分け隔て無く全ての生物に与えられ、善人悪人関係なくその恩恵を受けることが出来る、と言うように考えられます。

確かに太陽の光、大地や海からもたらされる獲物や魚介類は、全ての人々に分け隔て無く、(その人間がどんな行いをしていようと)選択されることなく、絶対的に公平に与えられるものです。
いわゆる自然の持つ「無条件の愛」とも捉えることが出来ます。


2.後半部

ここも、第九の日本語の歌詞の一つである「酒あり 愛あり 真の友あり 虫さえ喜び 天使は空に」が、ある程度意味にかなっているような気がします。

この後半部には、難解なキーワードである「口づけ」「葡萄(ぶどう)」「死の試練にある一人の友」、そして「ケルブ(智天使)」が登場します。

それぞれは、恐らく以下のような事項を象徴した言葉と思われます。

「口づけ」:愛の象徴

「葡萄(ぶどう)」:豊かさの象徴
キリスト教の聖書でも、葡萄は実りの象徴として描かれていることが多い果物です。

「死の試練にある一人の友」:真の友(命を賭ける価値がある程の友)
「死の試練にある」という表現は、恐らく「(その者のために)死の覚悟が出来ている」とか「(精神において)死の訓練が出来ている」というように考えると、結構自然に解釈できるような気がします。
すなわち、友のためには命をも惜しまない「真の友情に支えられた友」と思われないでしょうか?
一説には、「死の中で試された」と訳せることから、全人類の罪を自身の死によって贖ったと言われるキリスト教の始祖「イエス・キリスト」ではないかと言われてますが、この「歓喜に寄す」全体が、特定の宗教に基づいた詩ではなく、ギリシャ神話やキリスト教等の概念をごちゃ混ぜにした、一つの思想を謳っているように思われますので、何も特定の人物に限ることはなく、前の2つと同じように、概念的なもので捉えるといいような気がします。

「ケルブ(智天使)」:叡智の象徴
ケルブそのものについては、前述の「ケルブ(智天使)について」で述べた通りですが、ここでは恐らくケルブそのものが問題ではなく、ケルブが智天使(神の叡智を司る天使)であり、この詩全体が特定の宗教色をあまり出していないように思えることから、叡智の象徴として描かれているような気がします。

これらを総合すると、この節は、「官能的な(低俗な?)快楽は虫のような(下等?)生物にも与えられるが、歓喜(人にしか得られない?真の歓び)は、神の叡智の祝福を受け、人類に真の愛、真の豊かさ、そして真の友を与えてくれる。」と解釈できるのではないでしょうか。