ボンの歴史

〜ベートーヴェン以前〜

 1990年の東西ドイツ統一まで西ドイツの首都であったボン。今は首都はベルリンに移りましたが、なおもってボンは音楽の都の顔を持ち続けています。それはもちろん、ボンの人たちが今もベートーヴェンの生まれた街としての誇りを持ち続けているからに他なりません。では、その歴史をちょっと覗いてみましょう。

<古代〜中世>

 ボンは他の多くのラインの左岸の街と同じく、その起源を古代ローマ帝国の時代にまで遡ることができます。ローマの史家タキトゥスの書にカストラ・ボネンシアの名で現れるのがそれです。カストラ・ボネンシアとは、ラテン語で優秀な陣営、という意味です。この当時はケルト人の街であったと考えられています。その後、ローマ軍に占領されたカストラ・ボネンシアはローマ軍第21兵団の要塞となり、ボンナと呼ばれるようになります。

 ローマ帝国も末期ともなるとその力も衰え、周辺部はたびたび他民族の襲撃を受けるようになります。もちろんボンも例外ではありません。紀元70年には手痛い打撃を受け、以後衰退の一途を辿ります。そしてついに、359年、ゲルマンの1支族、フランク族によりボンの要塞は破壊されます。時代は古代から中世に移ります。

 中世の訪れとともにライン地方にキリスト教が伝えられます。その中心をなしたのがカシウスとフロレンティウスという二人の殉教者を記念した教会です。のちにケルン大司教の庇護下にはいったカシウス教会の周りには次第に人々が集まるようになり、ボンの中心になっていきます。現在ボンの中心となっているミュンスター教会(大聖堂)は、12世紀から13世紀にこのカシウス教会の所にたてられたものです。

 9世紀にはゲルマンの1支族、ノルマン族がライン川を遡ってきて、889年にボンに侵攻しました。しかし、その痛手も程なく回復した模様で、10世紀の初めにはドイツ皇帝がこの地でフランス国王と条約を結んでいます。

 1265年にケルンの大司教ラインケンスがケルン市民と争って同市を追われ、1967年から1794年に至るまで、ボンは選挙侯でもあるケルン大司教の居城となります。居城をボンに移した大司教はケルン市との抗争に備えて城壁を整備しました。その後、歴代の選挙侯がボンに住んだのですが、大司教を兼任するということもあり、必ずしも世襲制というわけではありませんでした。

<近世〜ベートーヴェン以前>

 ラインケンスが築いた城壁を取り壊してボンの街にバロック的威容を与えたのはバイエルンのウィッテルスバッハ家出身の選挙侯、ヨーゼフ・クレメンス(在位1689〜1723)でした。彼の時代に、17世紀初めからあった宮廷楽団は17名から、軍楽隊要因として8名のトランペットと太鼓奏者、6名のオーボエ奏者を抱えることになりました。合唱団も少年のみならず大人も加えて18名になり、ポリフォニーの音楽も歌いました。皇帝自身作曲するほど音楽に通じていたということです。

 クレメンスの後を継いだ甥のクレメンス・アウグスト侯(在位1725〜1761年)は当代一流の工匠により大規模なロココ風都市計画を完成させました。彼も音楽愛好家で、自身ヴィオラ・ダ・ガンバを弾きました。

 1733年、リエージュの聖ランベール教会に勤めていた若いバス歌手ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、この教会の司祭であったクレメンス・アウグスト侯に見いだされ、400グルデンの給料でボンの宮廷楽団に召し抱えられました。彼こそが「楽聖」ベートーヴェンの同名の祖父です。当時ボンの上流階級の間ではオペラが愛好されていて、イタリアから多くの音楽家を招いてオペラを上演していましたが、宮廷楽団がオペラを上演することもありました。たとえば、1748年には居城庭園内にオペラハウスをたてて、メタスジオのオペラ『アルタゼルゼ』を上演しましたが、ハンブルクから来た二人のプリマドンナとラーフ(ボンのギムナジウムで学んだテノール歌手。1736年に選挙侯に召し上げられた)、ベートーヴェン(祖父)が主役を演じました。

 こうして華やかな宮廷文化をさかせたクレメンス・アウグスト侯ですが、その見返りとして死後に多大な負債を残しました。そこで、次の選挙侯マックス・フリードリヒ(在位1761〜1784年)は財政の建て直しを余儀なくされました。そこで、演奏会も回数を減らされることになりました。楽長トゥシュムランはこのためボンを去り、代わりにベートーヴェンが楽長になりました。ちなみに、1765年に同楽団を去ったヴァイオリニストのザロモンは、後にロンドンにハイドンを招き、12曲のいわゆる「ザロモン・セット」を生み出すことになります。ベートーヴェンは1773年になくなるまで、宮廷楽団の上演するオペラで主役級をこなし、人気を博したといいます。祖父が亡くなった年、1773年には「楽聖」ベートーヴェンは3歳になっていました。

 



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(アマチュアオーケストラ,大阪市)