ワルツと「ワルツ王」シュトラウス

 ビーダーマイヤーを代表するワルツ作曲家にミヒャエル・パーマー(1782〜1827)がいます。彼は従来のワルツにはなかった優美さや甘美さを備えたワルツを作曲しました。

 そのパーマーの楽団から独立した音楽家にヨーゼフ・ランナー(1801〜43)がいます。彼こそビーダーマイヤーの花と言うべき人物でしょう。彼は4人の楽員からなる楽団を率いてウィーンの酒場などで演奏していました。この時代のワルツの音楽家たちはみなウィーンの庶民の出でしたが、ランナーもまたウィーン郊外の手袋工の息子として生まれました。

 ランナーの音楽は、かのハンスリック(ブルックナーをはじめとするワグナー陣営と見なされる作曲家を痛烈に批判したので有名)に「すみれの香りのする音楽」と評されたことがあります。当時の人々はランナーを「愛すべき人」と名付け、彼の音楽は「足を踊らせ、しかも目には少し涙をにじませる」といいました。

 ランナーはヴァイオリンの名手でした。彼の奏でる三度進行による感傷的なメロディーは人々を魅了しました。
  今年、2001年はランナーの生誕200周年にあたるため、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートでランナーの曲が3曲取り上げられました。ワルツとギャロップとレントラーが1曲ずつです。

 同じくパーマーの楽団のヴァイオリニストにヨハン・シュトラウスがいました。のちに彼はランナーの楽団に移籍し、さらにそこから独立します。ランナーの音楽が甘美さで人々を誘うものだとすると、シュトラウスの音楽は炎のような情熱で人々を力ずくで踊りに引き込むものでした。

 彼らの活躍した時代には、メッテルニヒが政界を牛耳っており、民衆に政治に目を向けさせないためにワルツを奨励しました。しかし、市民たちの労働条件は悪化の一途をたどり、やがて三月革命が起こり、ビーダーマイヤーは終焉を迎えます。この新しい時代に活躍したのは「ワルツの父」ヨハン・シュトラウス(T世)の息子、「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス(U世)でした。

 三月革命の1年後にあたる1849年に父シュトラウスが病没したため、息子シュトラウスは父の楽団を引き継ぐことになります。今日まで演奏される彼の代表作は、全てこの父の死後に発表されたものです。

 1857年にはウィーンの城壁が取り壊され、環状道路(リング・シュトラッセ)の建設が始まり、ウィーンの近代化は進みますが、シュトラウスはこのことを「取り壊しのポルカ」を作曲して記念します。ウィーンも生まれ変わり、シュトラウスの音楽も生まれ変わったのです。この時期、彼は数多くのポルカを作曲しています。ポルカはもともとボヘミア(チェコの一部)の踊りでしたが、1839年頃ウィーンに伝えられ、大流行しました。1830年頃ボヘミアの農民の娘が考案し、1835年にプラハでポルカと名付けられたと伝えられていますが、これはどうやら伝説のようで、その起源はさらに昔に求められるようです。

 1863年、シュトラウスは宮廷舞踏指揮者になり、彼の創作上の絶頂期を迎えます。「美しく青きドナウ」(1867)、「芸術家の生涯」(1867)、「ウィーンの森の物語」(1868)、「ウィーン気質」(1871)などの名作がこの時期に作曲されました。

 1870年頃から彼はオペレッタの作曲に没頭します。その背景としては、オッフェンバックによる熱心な勧誘や、新しい妻の影響があると言われています。当時のオペレッタは大衆演劇の一種と認識されていましたが、彼のオペレッタはグスタフ・マーラーによって国立歌劇場で取り上げられ、模範的な演奏をされる機会を得たことにより、国民的芸術として高い地位を得るに至っています。オペレッタはその後アメリカに渡り、ミュージカルに生まれ変わりました。

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