ウィーンの歴史

〜楽都の生い立ち〜

第2部

  1. 傾く神聖ローマ帝国
  2. ナポレオンの台頭とウィーン会議
  3. 三月革命と2つの大戦から現代まで

1.傾く神聖ローマ帝国

 マリア・テレジアと彼女の息子らの政治は、啓蒙思想に基づいて多くの社会の改革を行ったため、啓蒙専制君主制とよばれています。繰り返す戦争等で疲弊していた国力を立て直すため、彼女は宮廷文化から、無駄な装飾を取り除きました。音楽が華美なバロックから器楽中心の古典派に移っていったのもその影響です。中央集権的な体制を強化する一方でユンカーと呼ばれる地主貴族が農奴とよばれる農民を搾取し、さらにその地方貴族の頂点に皇帝がいる、という封建的身分制を残した社会を形成しましたので、貴族達はこぞってウィーンに宮殿を構えました。そこで、自然とウィーン文化の担い手は皇帝から彼ら貴族の手に移っていきました。

 この時代に貴族に雇われた音楽家の代表としてヨーゼフ・ハイドンが上げられます。ハイドンは幼少の頃からオーストリア帝国内の貴族の邸宅を生活の場としましたが、最も長く彼を抱えたのはニコラウス・ヨーゼフ・エステルハージでした。エステルハージ侯家は夏は侯自身の領地で、冬はウィーンの邸宅で過ごしましたが、これらの邸宅には、お付きの楽団がありました。この楽団の作曲者としてハイドンは雇われたのです。エステルハージ家の楽団は邸内のコンサートのほか、食卓音楽やオペラ、教会音楽なども演奏しました。このようななかでハイドンは彼の交響曲の様式を整えていったのでした。ハイドンはあるとき人から、なぜ弦楽五重奏曲を作曲しないのか聞かれたことがありました。ハイドンの答は簡単でした、「私はそれを注文されたことがないのだ」。ハイドンはあくまで主人の注文に忠実に作曲を行いました。18世紀も末ともなると、貴族達の多くは弦楽合奏を抱える程度には裕福でしたが、その権勢はオーケストラを常に抱えるには及びませんでした。そこで、古典派の時代にウィーンでは多くの弦楽四重奏曲や弦楽五重奏曲が作曲されました。交響曲の後の発展を思うと、ハイドンのおかれていた環境はまさに幸運であったと言えるでしょう。

 さて、オーケストラをかかえるほど裕福でない貴族達は、裕福な市民達と協力して演奏会を開くことを考えました。19世紀の初頭から、チケットの販売収入によって演奏会を開く公開演奏会が一般化していきました。こうして生まれたのがウィーンの「合同華族協会」です。以後、音楽の舞台は貴族から富裕な市民階層にまで広がります。「協会」の音楽会ではバッハやヘンデルら、プロテスタント系の音楽がしばしば演じられ、モーツァルトもこの演奏会を聞くことによって偉大な先人の音楽に触れ、影響を受けたと言うことです。

 ザルツブルク生まれで生涯に4度ウィーンを訪れ、その4度目にしてウィーンに定住し、晩年の10年間過ごしたモーツァルトは、マリア・テレジアの息子、ヨーゼフ二世の宮廷で「宮廷室内作曲家」の職を得、800グルテンの年俸を受け取ることになりました。しかし、そこでの彼の仕事は宮廷舞踏会のための舞曲の作曲だったのです。彼はハイドンのように貴族にかかえられることもありませんでした。しかしモーツアルトは貴族の子女への音楽の教授と、当時開かれ始めた公開演奏会によりかなりの収入を得ていました。一方で、彼はドイツ国民のためのオペラを作曲したいという思いから、ドイツの民衆音楽劇・ジングシュピールの要素を取り入れたドイツ・オペラを作曲しました。彼の最後のオペラとなった「魔笛」はウィーン町はずれの市民劇場のためにかかれています。また、彼の最後の3つの交響曲は誰からも作曲の依頼があった形跡が見られません。まさに彼自身の芸術性の発露のために書かれた曲と言えるでしょう。宮廷舞踏と市民の娯楽、そして美の追究。彼の時代になって初めて芸術音楽は全社会階層が共有するものとなったのです。この流れは一方ではヨハン・シュトラウスの華麗な音楽に、一方ではベートーヴェンの人間賛歌へと受け継がれていくことでしょう。 

2.ナポレオンの台頭とウィーン会議

 社会の大きな変革は西からやってきました。国家の搾取に反抗した市民の手によりフランスで革命が勃発し、王制が倒されたのです。革命の波は次第にヨーロッパ全土に広がっていき、そのなかからナポレオンが台頭してきます。

 ナポレオン軍は1800年にマレンゴの戦いでオーストリア軍に勝利、ライン川左岸を確保します。1806年に皇帝に即位したナポレオンは1806年には南ドイツにライン同盟を結成し、ナポレオンを盟主におく南ドイツ連邦が成立します。そして、その翌月のフランツ1世の退位をもって神聖ローマ帝国は滅亡します。1810年にはナポレオンはオーストリア皇女マリー=ルイズと結婚します。

 「東の国」オーストリアに西ヨーロッパの新しい風が届くには時間がかかりました。王家は啓蒙思想の影響を受けてはいましたが、あくまで封建制度を国体の基本としていて、自由な市民の社会進出から資本主義が誕生してきていた西ヨーロッパとは大きな隔たりがありました。しかし、ドイツの中でもフランス国境に近いボン出身のルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンはすでに自由の心地よい風に触れていました。彼をウィーンに送り込んだ選帝侯マクシミリアン・フランツは、兄に当たる啓蒙君主・オーストリア皇帝ヨーゼフ二世よりさらに進歩的で、「啓蒙的カトリック主義」の代表者でした。ある意味で、ベートーヴェンこそがウィーンに自由という新しい風をもたらしたと言えるかもしれません。

 ウィーンにやってきたベートーヴェンは、卓越した演奏技術(彼は当代随一のピアノ奏者で、特にバッハを得意としていました)と作曲の才能で貴族社会の中に暖かく迎えられ、晩年まで尊敬と愛情を受け続けました(モーツアルトを共同墓地に埋めたウィーンで、ベートーヴェンの葬儀には2万人以上の人々が参列したのです)が、決して貴族に召し抱えられることはありませんでした。そのため彼は自作の楽譜を出版してもらうために、当時生まれたばかりの出版社と懸命に交渉する必要がありました。その代わりに彼は自らかきたいものをかく自由を得たのでした。また、貴族達もこの天才が自由に音楽をかくことを望みました。

 ベートーヴェンがナポレオンに心酔していて、ナポレオンに進呈するつもりで交響曲第3番をかいたという話は有名です。「英雄」の名で呼ばれるこの曲は、作曲者がナポレオンの皇帝即位に失望したため、結局進呈されることはありませんでした。ちなみに、作曲家がある人に曲を進呈する場合、その相手から謝礼はちゃんといただいていました。作曲家達もそれを見越して王侯貴族達にせっせと曲を進呈したのです(晩年のベートーヴェンは、高い音楽的見識と技術を持つ相手を選んで作品を献呈しました。選りすぐりの聴衆に彼の音楽を聴いてもらいたかったのでしょう)。

 1812年のロシア遠征の失敗を皮切りにナポレオンの凋落が始まります。1813年、第4回対仏大同盟により、ヨーロッパ各地で解放戦争が始まります。そして同10月、ライプツィヒの戦いでプロイセン・ロシア・オーストリアの同盟軍に大敗、1814年3月にはパリが陥落し、ナポレオンは退位し、その後エルバ島に配流されます。

 1814年9月から1815年6月にかけて、ナポレオンの戦後処理を話し合うため、ウィーンで国際会議が開かれました。いわゆるウィーン会議です。この会議にオーストリアの外相(のちに宰相)として参加し、辣腕を振るったのがメッテルニヒです。百数十カ国が参加した会議はそれぞれの領土的野心のために紛糾しましたが、その中にあって後にウィーン体制と呼ばれる反動的な体制を導いたのがフランスのタレーランと並んでオーストリアのメッテルニヒでした。ウィーン体制とは、平たく言えばヨーロッパをフランス革命以前の状態に戻す、という方針でした。

 長引く会議のなか、社会不安が広がるのをおそれたメッテルニヒは、民衆の興味を政治から遠のけるため、民衆にたいしてワルツを踊ることを推奨しました。もともとが音楽好きで踊り好きのウィーンの人々の間でワルツは非常な流行を見ました。メッテルニヒはウィーン議定書の採択後も反動的な政治を続けました。このころのウィーンの文化はビーダーマイヤーと総称されます。

 ビーダーマイヤーとはある詩人が創造した俗物的な教師の名前です。柔らかく穏やか、とにかく平和で小市民的。メッテルニヒの体制の中、前の時代の疾風怒濤は忘れ去られます。長引く戦乱で疲弊していた人々は、とにかく戻ってきた平和を慎ましやかに享受したのです。ベートーヴェンが晩年を過ごしたのはそんな時代です。ウィーンの人々はベートーヴェンの重厚な交響曲よりイタリアからやってきたロッシーニの歌劇を愛しました。

 この風潮に嫌気がさしたベートーヴェンが、彼の第9交響曲の初演をベルリンで行うと言いだし(実際には筆談)、ウィーンの音楽関係者があわてて嘆願書を書き、なんとかウィーン初演にこぎつけたと言う話は、弟子のシントラーによる伝記等により有名です。しかし、その後ウィーンからは交響曲作曲家は姿を消すのです(シューベルトはベートーヴェンのわずか1年後になくなっています)。ベートーヴェンの最後の交響曲の初演には多くのアマチュア演奏家が参加しています。当時のウィーンの公開演奏会ではアマチュアが参加することは普通のことでした。また、ベートーヴェン自身、ウィーンのアマチュア演奏家のレベルの高さは認めています。

 大作曲家の不在とアマチュア音楽家の興隆。これがあらたなウィーンの音楽の母質となったのです。結果、ウィーンのオーケストラは保守化し新作を殆ど演奏しなくなり、一方、音楽の舞台は家庭の中に入っていきます。ベートーヴェンが集大成した古典派に続き現れたロマン派の作曲家達は、バラードのような小品を好んでかくようになりました。シューベルトの歌曲はこうした流れの中でウィーンの人々に受け入れられていったのです。ちなみに、ウィーンの大交響曲作曲家の中でウィーン生まれウィーン育ちはシューベルトだけです。その交響曲が生前殆ど認められなかったのは運命の皮肉と言うべきでしょう。

3.三月革命と2つの大戦から現代まで

 ウィーン体制の反動的な支配が続く中、ヨーロッパ中で市民の不満は蓄積していきました。フランスでは1830年に七月革命、1848年には二月革命が勃発し、反動体制を覆しました。それに呼応して、オーストリアでも1848年に三月革命が勃発、メッテルニヒは失脚し、海外に亡命します。ここにおいてウィーン体制は崩壊します。それとともにビーダーマイヤーの時代も幕を下ろすのでした。ウィーンは徐々に近代化の道を歩み始めます。1857年には古い城郭が取り壊され、水を張り堀とするために城郭の周りに設けられていた空閑地が区画整理されました。城郭のあとにはリング・シュトラッセ(環状道路)とよばれる道が造られ、周辺には美術館や劇場などの公共施設を次々に建設しました。そしてこれらの資金を捻出するために、かなりの土地を民間に売却しました。いわば、ウィーンのバブル時代です。息子ヨハン・シュトラウスが活躍したのはそんな時代でした。

 ワーグナーが「リエンチ」、「ローエングリン」、「タンホイザー」の成功の名声とともにウィーン入りしたのは三月革命の直後のことでした。彼は各劇場を訪れ、彼独自の劇場改革案を説いて回りましたが、革命後とはいえ、保守的な劇場人の間で受け入れられることはありませんでした。ウィーンにおいて先頭だってワグナーの宣伝につとめたのはヨハン・シュトラウスでした。1853年から数年の間に、彼は自ら指揮して「タンホイザー」や「ローエングリン」、「トリスタン」の抜粋を演奏しました。

 勢いを増すワグナー人気に押され宮廷劇場で「ローエングリン」が初演されたのは1858年のことでした。この演奏会では第1幕から喝采の嵐でした。やがてウィーンには大ワグナーブームが起こります。これが後にワグナー陣営対ブラームス陣営の対立に発展していきます。

 ドイツは低ザクセンの人、ヨハネス・ブラームスがウィーンに移ったのは1862年のことでした。その後彼は35年間にわたりウィーンで暮らします(奇しくもベートーヴェンも約35年ウィーンで過ごしました)。彼は1872年から3年間ウィーン学友協会の芸術監督を務めましたが、任期中の演奏曲の3分の2を北ドイツの音楽が占めました。すなわち、ブラームスはベートーヴェンと同じくバッハの音楽をウィーンに広めるのに大きな貢献をしたのでした。一方、彼はシューベルトの作品を好んで演奏しました。ブラームスはドイツの伝統を継承し、ウィーンにもたらしただけではなく、北ドイツの厳しく緻密な音楽とオーストリアの明朗な音楽を橋渡しする役割を果たしたのでした。

 ブラームス陣営に対してウィーンでワグナー陣営の首魁と目されたのがアントン・ブルックナーでした。リンツ郊外の田舎のオルガン奏者であったブルックナーにとって、この状況は好ましいものではありませんでした。ワグナーの音楽を敬愛したブルックナーでしたが、彼自身はワグナーとは違い、交響曲というスタイルを自己の表現の場として選んだのでした。当時のウィーンでは教会音楽と世俗音楽には大きな隔たりがありました。その中でブルックナーは拡張された交響曲のスタイルとワグナーの生み出した響きをもって、神の創造を賛美する音楽をかいたのでした。いずれにせよ、ウィーンにはこうしてベートーヴェン、シューベルト以来絶えていたシンフォニストの系譜が復活することになったのでした。

 このころ隣国プロイセン王国が鉄血宰相ビスマルクのもと力をつけ、1871年にはオーストリアを除くドイツを統一し、ドイツ帝国を成立させました。1882年、フランスに対抗するためドイツ・イタリア・オーストリアの間で三国同盟が結ばれました。これに対し、イギリス・フランス・ロシアは歩み寄りを示し、1907年には三国協商が成立します。1908年、ブルガリアの独立に乗じオーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したため、セルヴィアやその背後にあるロシアとの間に緊張関係が生じます。そんな中、ボスニアを訪れていたオーストリア皇太子がセルビア人の学生に射殺されたのを引き金に第1次世界大戦が勃発します。

 きな臭い方向へ進みつつある時代背景の中、グスタフ・マーラーがウィーンに登場します。彼は指揮者として、音楽監督としてウィーンに君臨しました。しかし、彼の交響曲は生前1曲もウィーンで初演されていないのです。マーラーは「やがて私の時代がくる」と予言しました。100年を経た今が、彼の時代なのでしょうか。彼の交響曲はいまや主要なオーケストラの重要なレパートリーとなっています。

 バイエルン人、リヒャルト・シュトラウスもウィーンで活躍しました。彼の前半生は交響詩の作曲家、後半生は歌劇の作曲家といえるでしょう。そのどちらもウィーンで熱狂的に受け入れられました。ただし、歌劇に関してはドレスデンで初演されたのちウィーンで上演されるというのが恒例になっていました。シュトラウスはウィーンの中に同じバイエルン族の血を感じ取り、その音楽をこよなく愛しました。彼の歌劇に盛んにワルツが取り入れられているのがその現れです。リヒャルト・シュトラウスは「長く生きすぎた」ため、晩年は現代作曲家ではなくなっていましたし、ナチスとの不名誉な関係も生じました。

 ロマン派の時代の最後に現れたのがシェーンベルクです。彼はやがてロマン派の枠を乗り越え、無調音楽を生み出します。彼と彼の同調者、ベルク、ウェーベルンらは新ウィーン楽派と呼ばれます。第1次大戦の終わった1920年にはシェーンベルクは十二音技法をうち立てます。この手法により音楽は機能和声や調性を完全に失います(いえ、これらのものから自由になった、と表現すべきでしょうか)。彼らはマーラーと同じく「自分たちの時代がくる」と信じていました。この考えは半面は当たっていたでしょう。芸術音楽界からメロディーは消えました。が、逆に新作が演奏されないブラームス以前の状態を再び生み出しています。

 二つの大戦の中で王制と非ゲルマン系民族の住む領土を失ったオーストリア(第二次世界大戦勃発前にはオーストリア自体がナチス・ドイツに併合されています)は、小さな国になりました。それでも、ウィーンはウィーンです。世界中の音楽ファンを魅了してやまないウィーンは、いまだ、音楽という「日の沈まない帝国」の中心にあるといえるのではないでしょうか。