ウィーンの歴史

〜楽都の生い立ち〜

 ウィーンドナウ川に面した交通の要所で、人々が集落を作った痕跡は紀元前2000年ごろに遡ります。そこで、これを以下の時代に区切ってその発達と音楽との関わりを大まかにたどってみたいと思います。詳しい歴史をお知りになりたい方は、先に挙げました参考文献を参照して下さい。

第1部

  1. 揺籃期〜ローマ帝国の支配
  2. ゲルマン民族の大移動〜バーベンベルク王朝
  3. ハプスブルク家の登場とその全盛期

第2部

  1. 傾く神聖ローマ帝国
  2. ナポレオンの台頭とウィーン会議
  3. 三月革命と2つの大戦から現代まで

第1部

1.揺籃期〜ローマ帝国の支配

 紀元前2000年といえばヨーロッパは新石器時代にあたります。ウィーンのもととなる集落はそんな昔にできました。東西南北の交通の要所として栄えたこの集落は、続く青銅器時代にはかなり大きなものになっていました。

 次の鉄器時代のハルシュタット文化期には南方系のイリリア人がすんでいました。この時代にはシュリンクス(パンパイプ)やリラといった、古代ギリシャで有名な楽器が用いられていたことが分かっています。

 続くラ・テーヌ文化期には、ケルト人たちがこの地に住み着きました。ケルト人はこの町を、白い河を意味するヴィンドミーナ、もしくは、白い岩を意味するヴィンドボーナと呼びました。これがウィーンの地名のもとになっています。

 紀元前15年から14年に、ローマの将軍ティベリウスとドルススがアルプスを越えてドナウ川南の土地を征服し、レティア、ノリクム、パンノニアの3州がつくられました。ウィーンはパンノニアの中心都市となり、ローマ人たちはこの交通の要地を他民族の侵攻から守るために軍隊を駐屯させました。この時代のウィーンの音楽についてはほとんど何も分かっていません。

2.ゲルマン民族の大移動〜バーベンベルク王朝

 (しばらく音楽の話が出てきませんが、ちょっと我慢して下さいね。我慢できない人はリンクを張ってあるところを拾い読みして下さい!)

 ローマ帝国の支配が弱まるにつれ、東方から様々な民族が帝国領を侵すようになります。そして、フン族の到来とともに民族移動の波は一気にローマ帝国中を飲み込んでいきました。

 ウィーンにはまず、ゲルマン民族のバユヴァーレ族(バイエルン族)が住み着きます。次にロンバルディア族がやってきますが、彼らはやがてアルプスを越えてイタリア半島に入ります。その後、北ドイツに住み着いたフランク族が勢力を伸ばし、バユヴァーレ族はその支配下に入ります。その結果、ウィーンにフランク族とその文化が影響を及ぼすことになります。したがって、ウィーンはバイエルンに繋がる南ドイツ風の気質とともに、北ドイツやオランダのフランク族の特性も受け継いでいるのです。

 さらにその後も、アジア系のアヴァール人やスラヴ系のスロヴェン人がウィーンを席巻します。5世紀から8世紀頃にはバユヴァーレ族が勢力を盛り返し、ウィーンを奪還します。こうして、ウィーンには様々な民族の血が混じり合っていったのでした。フランク王国のカール大帝は他民族の侵攻に対抗するため、この地に王国直属の東方辺境領を設けます。このころからウィーンはヴェニアと呼ばれるようになります。

 907年に、東方辺境領にアジア系のマジャール人が攻め入ります。結局彼らはフランク王国軍にハンガリーまで攻め戻され、そこに定住します。976年、神聖ローマ帝国(詳細はコチラ)のオットー二世はバーベンブルク家のレオポルト一世に東方辺境領の支配をゆだねました。この後3世紀近く、この地方はバーベンブルク家の支配下におかれます。その後この地域は発展を遂げ、1156年には独立の公国となり、東方辺境伯領(オストマルク)から東方の王国(オストリヒ)になりました。これに伴い、国王のハインリヒ二世がはじめてウィーンに都を移しました。

 バーベンブルク家によるウィーン第一の黄金期には、ウィーンはすでにヨーロッパ有数の音楽の中心地となっていました。これは、ウィーンがドナウ川のほとりにあることや西ヨーロッパの「辺境」にあることと無関係ではありません。文化は、東西両方からやってきたのです。

 ハインリヒ二世ら歴代の王の寵姫の多くはギリシャから迎えられ、ビザンチン文化(東ローマ帝国の文化で、古代ギリシャ・ローマ文化を継承するとともに東洋的な要素も色濃く持つ)をウィーン宮廷にもたらしました。西方からは、貴族階級にはミンネゼンガーの歌が伝えられました。また、民衆には遍歴の「芸人」たち、シュピールロイテが歓迎されました。このように、当時すでにウィーンには芸術を愛し、暖かく迎え入れる風土が育っていたのです。

3.ハプスブルク家の登場とその全盛期

 1246年にバーベンベルク家最後の王、フリードリヒ二世闘争公が男系後継者を残さず戦没した後、ウィーンは36年に及ぶ混乱の時代に突入します。この混乱を収めたのはハプスブルク家のアルブレヒト一世でした。以後ハプスブルク家によるオーストリア支配は1918年まで続きます。

 長い混乱期の間に、貴族社会を中心とするミンネゼンガーの活動は衰弱し、かわりに市民階級でシュピールロイテがもてはやされるようになりました。これに対し、ウィーン在住の音楽家がその地位を確保するとともに無益な競合をさけるために、1288年にニコライ組合という組合を結成しました。芸人たちは芸能伯と呼ばれる貴族の庇護のもとで、芸人には似つかわしくないほど厳格に規則に従って活動を行いました。

 中世からルネサンスにかけて、様々な音楽の波がウィーンに押し寄せました。教会音楽マイスタージンガーの音楽ゲセルシャフト・リートフマニスト(人文主義者)の音楽と、波の種類が異なる毎に、その中心も、教会、市民階層、大学とかわっていきました。しかし、ウィーンの音楽がウィーンらしい発展を遂げていったのは、なんといってもハプスブルク家の宮廷の中でした。

 ハプスブルク家の支配も初期には安定状態とは言い難いものでしたが、マクシミリアン一世の治世(1493〜1519)以降、ハプスブルクの版図は超民族的に拡大していきます。そして彼の曾孫に当たるカール五世の治世(1519〜1558)にはハプスブルク家の領土は人類史上最大のものとなりました。ドイツ(神聖ローマ帝国)とオランダ、ナポリ、シチリア、東ヨーロッパに君臨するハプスブルク家がスペイン王位をも継承したため、新大陸も含む「日の沈まない帝国」が形成されたのです。このことをAEIOUと呼びます。ラテン語で「オーストリアは世界の国土を支配する」、という言葉の頭文字をとったものです。

 ウィーンはまさに世界の中心となりました。そして、非常にウィーンらしいことなのですが、この時代のハプスブルクの支配者たちは揃って大の音楽好きで、音楽家の擁護者だったのです。マクシミリアン一世は当時まだ珍しかった宮廷楽団を持っています。ウィーンにはこの当時音楽の中心であったネーデルランド(オランダ)の楽師たちが多く招かれています。音楽史ではバロックと区分される時代です。

 その後オーストリアには、トルコの侵入、宗教改革の嵐、三十年戦争など多くの混乱の種が巻きおこります。これらの混乱が収まった頃、宮廷音楽は再び花開きます。今回の特徴として、皇帝自らが好んで作曲をしたり、楽器を演奏したりしているのです。しかも、その腕前は、当時の有識者が「現存する音楽家でこれを上回るものは少ない」といわせたほどのものでした(下手、とは言えなかったでしょうが)。数多くの楽譜も現存しています。このころは音楽の中心はネーデルランドからイタリアに移っていました。中でも、イタリアのオペラはヨーロッパ中でブームになっていました。当然のごとく、ウィーンにもイタリアの音楽家たちが多数招かれました。その一方で、民衆の間ではジング・シュピールと呼ばれるドイツ語による音楽劇も浸透していきます。

 さて、マリア・テレジア女帝の治世(1740〜1780年)あたりから、音楽は古典派の時代を迎えます。時代の嗜好は、バロック・オペラ的なもの、オラトリオ的なものから器楽合奏的なものに移行していきます。では、シンフォニーの誕生、と行きたいところですが、その前にオペラの話。

 1762年、四十七歳の作曲家、グルックオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」を発表しました。これが音楽史の中で有名な革命だったのです。その理念とは、音楽を劇的効果に従えること、歌手の虚栄心の専横を押さえること、劇や台詞と関係のない音楽的装飾を除くこと、序曲を音楽の性質と関係づけること、などです。これを見ると後のワグナーによるオペラの改革を予兆したかのような内容です。しかし、同時代人の評価というものは厳しいものです。グルックは終生主流派とはなり得ませんでした。ちなみに、グルックの出身地ははっきりしていませんが、オーストリア出身でないことは確かなようです。

 いよいよウィーンがヨーロッパ、いえ、世界に向けて独自の音楽を発信する時代がやってきました。しかし、それは大きな社会の混乱とともにやってきたのです。