シュトラウス家の確執

音楽一家の内乱史

 「ワルツの父」ヨハン・シュトラウスT世(父)はウィーン郊外のユダヤ人街の料理屋の息子として生まれました。15歳の時に当時有名であったミヒャエル・パーマーの楽団にヴァイオリン奏者として入りました。この楽団には後のライバルとなるヨーゼフ・ランナーが同じヴァイオリン奏者として在籍していました。

1835年当時のヨハン・シュトラウスT世の肖像画です。
(「ワルツの父」 ヨハン・シュトラウスT世)

 パーマーは音楽家としては優秀だったのでしょうが、とにかくたちの悪い専制君主でした。何かと団員を叱りとばす上、ひどい大酒のみの大食漢で、団員の給料まで使い込む始末。まずランナーが我慢できなくなり、離脱。自分の三重奏団を持つようになります。後にシュトラウスも誘われてランナーの楽団に入ります。

 独立したランナーらは、にわか仕込みで作曲を学びました。その後ランナーの楽団はウィーンで急速に人気を獲得し、仕事もどんどん入ってきます。やがてさばききれなくなってくるとランナーは楽団を2つに割り、片一方の指揮をシュトラウスに任せました。ところがウィーン人たちは若いシュトラウスの方により惹かれていったのです。こうなると面白くないのはランナーです。二人の間にはだんだんとひびが入っていきます。やがて二人は決裂し、シュトラウスは自分の楽団を組織しました。

 「ワルツ王」ヨハン・シュトラウスU世(息子)が生まれたのは、父シュトラウスが21歳の時でした。このときには父の楽団は100名の団員を要するほどに成長していました。息子シュトラウスは6歳の時にもう小さな卓上ピアノでワルツを作曲して見せて母親を驚かせました。しかし、父シュトラウスは息子を実業家にしようと考えていたため、息子が音楽を学ぶことをいやがりました。それに対して母親は息子の才能を高く評価し、父親に隠れてヴァイオリンを学ばせたりして、息子を支援しました。ある時、父親に隠れてヴァイオリンを弾いていたところ、突然帰ってきた父親がこれを見つけ、激怒してそのヴァイオリンを取り上げ、踏み砕いてしまったと言います。

 しかし、父親に愛人ができて別居するようになり、息子の音楽家への道を阻むものはなくなりました。1844年10月16日のウィーンの新聞に次のような記事が出ました。「おやすみランナー、こんばんは老シュトラウス、おはよう、息子シュトラウス。」19歳のシュトラウスが自分自身の楽団を率いて舞台にデビューしたのです。

フォルクスガルテンのシュトラウス楽団演奏会での風景です。ここではたびたび彼の楽団の演奏会が開かれました。
(「ワルツ王」ヨハン・シュトラウスU世(中央の指揮者)と彼の楽団)

瞬く間に息子はウィーンの聴衆を魅了しました。父の方は1848年に有名な「ラデツキー行進曲」を作曲していますが、翌年の9月に45歳で急死します。死因は猩紅熱(しょうこうねつ)でした。そして息子は父の楽団をも引き継ぎ、生涯に479曲ものワルツを作曲したのでした。

 1863年から1870年には宮廷舞踏指揮者を務めましたが、「美しく青きドナウ」「ウィーン気質」等の名曲の多くがこの時期に作曲されています。1870年2月に母親が、6月に弟・ヨーゼフが演奏中に卒倒し、急死した後、シュトラウスの創作意欲は一時的に低下しますが、その後、オペレッタの作曲に熱中することとなります。そして、1874年の4月に名作「こうもり」が初演されてのですが、当時、とんでもない噂が広まったのでした。

 ヨハン・シュトラウスは弟ヨーゼフ・シュトラウスの楽譜を盗み出し、勝手にこれを用いて「こうもり」を作曲したというのです。しかも、この噂の発端は3番目の弟、エドゥアルトが言いふらしたというのです。さて、この噂の真相はどうなのでしょう?今となっては確かめようもないことなのですが、エドゥアルトという弟、ちょっと曲者のようです。

ヨハン・シュトラウスU世の弟で次男のジョセフ・シュトラウスです。彼も後世に残るいくつかのワルツを作曲しています。
(次男 ジョセフ・シュトラウス)
ヨハン・シュトラウスU世の弟で三男のエドゥアルト・シュトラウスです。彼はシュトラウス楽団の楽譜をほぼ全て焼却したことのみで、後世に名を残しています。
(三男 エドゥアルト・シュトラウス)

 彼は1870年から兄の楽団の指揮を任されていて、美貌の持ち主であったためウィーンの女性に大いに人気があったそうです。しかし、長兄ヨハン、次兄ヨーゼフと違い、エドゥアルトには作曲の才能がありませんでした。それで、ヨハンに対して強い嫉妬心を抱いていました。そして、1899年6月3日に肺炎のため、シュトラウスが亡くなると、彼の楽団が所有していた数百キロになる楽譜を、暖炉会社に反古紙として持ち込み、焼却を依頼しました。工場主がそれが大切な楽譜であることに気付きました。そこで、エドゥアルトに考えを改めるように頼み込んだのですが結局は無駄で、焼却することになってしまいました。焼却は午後2時から7時におよんだと言います。このような彼の性格から、兄の中傷を裏でやっていたとしても不思議ではありません。

 「ワルツ王」ヨハン・シュトラウスはその最期の日までウィーンの人々に愛され続け、葬儀には10万人の市民が参列したと言います。