マーラーとウィーン国立歌劇場
「私は人間的にはどんな譲歩もする。しかし芸術的には何らの譲歩もしない。失脚しはしないかと恐れる人はすでに失脚しているのだ」そう豪語したマーラーは歌劇場の支配人になるや様々な芸術至上主義的な改革を行いました。マーラーの改革で顕著なことは、歌劇場の中でほとんど忘れられていた「ドラマ」を取り戻したことでした。

 練習に入ってからでもマーラーは劇的能力のない歌手を仮借なく解雇しました。また、マーラーのチェックは音楽だけにとどまりませんでした。1998年1月のハンス・リヒター指揮の「ドン・ジョバンニ」の練習の時のマーラーの様子が記録されていますが、それによると、装置、衣装担当に向かい「いったいあのドン・オッタヴィオはなんたる衣装を着ているんだ?まるで葬儀屋じゃないか!」とどなり、第二幕の舞台上の小オーケストラをみて「あのヴィオラ奏者、鼻眼鏡とは何を考えているのだ?眼鏡ならともかく鼻眼鏡はいかん」、墓場のシーンでは「あれが石像のつもりか?紙の張りぼてにしか見えん。あれが石像だって!」、終幕では「稲妻が外じゃなく部屋の中で光ってるぞ!電気係は気でも狂ったのか!」と、まあ、怒鳴り続けています。

 マーラーの指示は観客にまで及びました。彼は歌手によって雇われるサクラを廃止し、観客席を暗くし、遅れてきた観客の入場を禁止し、アリアの後の喝采をやめる要請をしました。

 ウィーン・フィルにおいてマーラーはおもに日曜音楽会のみを振りましたが、ここでもマーラーは細部に至るまで神経質なまでに細かい解釈を徹底しました。マーラーは大きくテンポを揺らすタイプの指揮者でした。「ほとんどの指揮者が、何が重要で何が重要でないか区別することができないんだ。彼らはサッと通り過ぎれば済む大して重要でない箇所でも、大事なところと同じように強調してしまうのだ」とマーラーは語っています。

 マーラーにより歌劇場とウィーン・フィルは黄金期を迎えました。しかし、団員たちはしだいに独裁者に反抗するようになっていきました。一方でマーラーは10年に及ぶ歌劇場支配人の任期中に歌劇場の管弦楽団の約半数になる60名を更迭しました。そして行き着く先として両者は破局を迎えたのでした。

 ウィーン・フィルをやめることになる原因は財政的な問題でした。1900年、マーラーはパリの世界博覧会においてウィーン・フィルによる五つの音楽会を計画しました。この計画には莫大な費用がかかり、ウィーン・フィルの財政は危機的状態に陥りました。この損失はロスチャイルド(ロートシルト)男爵の寄付によって埋められましたが、マーラーが指揮者の地位を去る原因となったのでした。マーラーがウィーン・フィルの指揮者にとどまったのはたった3年のことでした。

 歌劇場を去ることになった原因も財政上の問題でした。1907年12月7日、マーラーは宮廷歌劇場のメンバーに訣別状を出しましたが、そこに至る原因はマーラーがあまりにも出費を続けたことです。「コックは単に料理を作るばかりでなく、買い入れも自分でしなければならない」と嘆いたマーラーでしたが、財政面の顧慮を欠いた芸術至上主義は限界に達したのでした。

 マーラーはその後アメリカに渡り、メトロポリタンやニューヨークで指揮をしました。しかし、ウィーン時代から続く健康の悪化により1911年5月にウィーンに戻り、サナトリウムに入れられます。ここには長くとどまることはありませんでした。5月18日に永眠したからです。マーラーの亡骸はウィーン郊外のグリンツィンクに埋葬されました。

 マーラーの死の翌年の6月26日、ブルノー・ワルターの指揮によりウィーンでマーラーの交響曲第九番が初演されました。マーラーの交響曲がウィーンで初演されたのはこれが始めてのことでした。