マーラーとウィーン国立歌劇場
 1869年5月25日、皇帝臨御のもと、リングシュトラーセの新しい帝立王立宮廷歌劇場のこけら落としが行われました。現在のウィーン国立歌劇場です。宮廷歌劇場と銘打った劇場はこれ以前にもありました。しかし、実際に宮廷が管理し、一部を除いてオペレッタを上演せず、純粋に歌劇の上演を目的とした劇場といえるのはこの劇場がはじめです。

 帝立王立宮廷歌劇場のオーケストラは宮廷楽団がつとめました。17世紀初頭のマクシミリアン一世の創立になる、由緒正しい楽団です。この楽団およびそれを継承したウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーがウィーン・フィルハーモニー交響楽団を構成しています。

 ウィーン・フィルの創設者は「ウィンザーの陽気な女房たち」の作曲者として有名なオットー・ニコライです。当時宮廷楽団の第一楽長をつとめていた彼は、宮廷楽団の音楽家を集めて定期的に公開演奏会を開くことを呼びかけました。1842年3月28日、「フィルハーモニー・アカデミー」の演奏会が開かれました。これがウィーン・フィルの始まりとされています。

 帝立王立宮廷歌劇場の初代支配人はフランツ・フォン・ディンゲルシュテットという舞台演出家でした。その次の支配人になったのが指揮者のヨハン・ヘルベックで、以後この歌劇場の支配人の過半数は指揮者が占めることになります。彼の時代に歌劇場の現在における主要なレパートリーであるワグナーおよびヴェルディの上演の伝統が始まります。

 次の支配人、フランツ・ヤウナーの時代に歌劇場は第一の盛期を迎えます。彼はまず、ワグナーとの関係を親密にしました。ビゼーの「カルメン」の真価に最初に気づいたのも彼でした。さらに彼はヴェルディの上演の道を確実にしました。

 ヤウナーの後を受け継いだのは指揮者のヴィルヘルム・ヤーンでした。彼は温厚かつ優秀な指揮者で、歌劇場をウィーン市民にとって親しみのあるものにする事に貢献しました。彼の時代にレパートリーも広がりました。

 ヤウナーが支配人を務めた時代、ハンス・リヒターが第一指揮者をつとめていました。そのころ、長年のあこがれであったウィーンに登場した指揮者がいました。1883年ウィーンのカール劇場の合唱指揮者になったグスタフ・マーラーです。

 1897年5月1日、マーラーはついに宮廷歌劇場の楽長の座を手にします。そして同年5月11日、「タンホイザー」をもって華々しく指揮者としてデビューを果たします。

 ユダヤ人であるマーラーの前には様々な障害が予測されました。マーラーのウィーンに受け入れられることに対する不安は、楽長就任の前年にはユダヤ教からカトリックに改宗したほどでした。ところが事態は急変します。支配人のヤウナーが急死し、後継者と目されていたリヒターが後任につくことを断ったため、マーラーに支配人の座が回ってきたのでした。さらには1898年、リヒターがイギリスに活動の場を移したため、彼の後任としてマーラーはウィーン・フィルの常任指揮者になりました。