マリア・テレジア女帝

 皇帝カール六世の娘、マリア・テレジアは父の死後、オーストリア、ハンガリー、ベーメンなどの支配権を継承しました。神聖ローマ帝国の位はバイエルンのカール七世が継承し、のちにマリア・テレジアの夫、ロートリンゲン侯フランツ・シュテファンが継承しますが、ハプスブルクの嫡流はマリア・テレジアなので、女帝と呼ばれます。しかし、この継承に関して諸侯の間で反発が起こり、オーストリア継承戦争や七年戦争といった戦争が勃発します。これらの戦争の中でオーストリアの継承権はなんとか確保したものの、シュレージエンをプロイセンに奪われ、その奪回はかないませんでした。

 「数千グルデンのお金しか金庫になかった。誰もが崩壊と分散がやってくるのではないのかとおそれた」女帝自身そう述懐しています。彼女は直ちに国の建て直しにかかりました。

 1749年、女帝は宰相カウニッツの援助を得て、経済、軍備、教育の諸方面から封建的な制度を追放し、ウィーンの中央集権を強めました。すなわち、地方の貴族たちは、中央の官僚に様変わりしたのです。この結果、貴族たちはウィーンに宮殿を構えるようになりました。ウィーンの音楽文化が貴族に移っていった原因はここにありました。