マジャール人

 ハンガリー人は自らをこう呼びます。元々はウラル山脈の南側に住んでいたウラル系の遊牧民族でした。

 8世紀頃南下を始め、南ロシアの草原地帯に移り住みましたが、9世紀にトルコ系遊牧民の侵入を受け移動を再開、ハンガリー盆地に入ります。そこでマジャールはもともと住んでいたアヴァール人やスラヴ人を征服、チェク人の国、モラヴィア王国を崩壊させます。

 さらに西へと攻め入る動きを見せたのですが、955年、フランク王国のオットー1世に敗退しました。この戦いを機に勝利者のオットーはローマ教皇から皇帝冠を授けられ、神聖ローマ帝国が成立します。一方の敗者側、マジャール人はこの敗戦を機に遊牧生活を捨てて農耕を覚え、ハンガリー盆地に王国を築き、ヨーロッパ社会に参入していきます。

 10世紀頃からは周辺のスラブ系の国々、スロヴァキア、トランシルヴァニア、クロアチアを支配下におさめました。15世紀にかつての宿敵とも言えるトルコ系のオスマン・トルコによりハンガリー王国は滅ぼされ、以後17世紀にオスマン・トルコが衰退を見せるまでトルコの支配が続きます。

 1699年のカルロヴィッツ条約により、ハンガリーはハプスブルク家オーストリアの支配下に入ります。1868年にはオーストリア皇帝がハンガリー国王をかねるオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立し、ハンガリーは外交と軍事を除く自治権を得ます。その後二度の大戦を通じてハンガリーは領土を失っていき、現在の形になります。

 このようなわけで、18世紀以降、ウィーンの上層社会ではハンガリーの貴族が重きをなしていました。彼らはウィーンに宮殿を構え、そこで冬を過ごしました。富裕な大土地所有者であった彼らは、ウィーンの宮殿で大饗宴を開き寒い冬を楽しみの中で過ごしました。

 憂愁と情熱を兼ね備えた彼らの歌はウィーンの人々を魅了しました。その中にはハンガリーからやってきたジプシーたちの音楽も分かち難く混ざっていました。そんな中にウィーンの人々は東洋の香りをかぎ取りました。オペレッタ「ジプシー男爵」にはじまる一連のハンガリーを題材にしたオペレッタを見ても分かるように、19世紀のウィーンの民衆にとってハンガリーは大きな存在だったのです。