作曲をする皇帝たち

 作曲をよくした最初の皇帝はフェルディナンド三世(在位1637〜57)です。オペラ1曲、マドリガル1曲、ミサ曲1曲等が現存します。有名なキルヒャーの音楽理論書の中に皇帝の作曲したこのオペラの一部が引用されています。

 フェルディナンド三世の息子、レオポルド一世の治世(1640〜1705)に宮廷の音楽熱は最高潮に達します。この時代、フランスではルイ十四世の時代にあたり、神聖ローマ帝国の権勢は傾きつつありましたが、ウィーン自体は商業都市として大いに栄えていました。後に「バロック皇帝」と呼ばれることになるレオポルド一世はイタリア趣味に染まっていました。宮廷内の用語はイタリア語で、宮廷詩人や宮廷作曲家はイタリア人で、イタリア人によって多くの宮殿が建てられました。

 皇帝はウィーンの宮殿、ラクセンブルクの宮殿、ファヴォリータの宮殿、エーベルスドルフの狩猟宮と、年に4つの宮殿を移り住むのを常にしていました。皇帝の宮殿には100人近い団員をかかえる楽団があり、皇帝は彼らを旅行に行くときにも放しませんでした。その演奏回数は年間に練習を除いて800回に及んだとの記録があります。この楽団は世界で第一の楽団と見なされていました。というのも、団員になるには皇帝自身の試験をパスしないといけないのですが、この皇帝、50人のヴァイオリニストの中から誰が間違ったか聞き分けるほどの耳の持ち主だったのです。皇帝自身フルートやスピネットの名手でした。

 華麗を好み陽気な皇帝でしたが、その作曲する曲はなぜか哀愁に満ちていました。后の死を悼んで作曲した嘆きの曲は、皇帝の最高傑作として人々に愛されました。彼の帝位の間に400以上に上るオペラが初演されましたが、そのほとんどに自らアリアを作曲して挿入させました。当時の記録はレオポルドを当代最大の作曲家とたたえています。

 レオポルドの息子、ヨーゼフ一世の治世(1705〜11)はわずか六年でしたが、楽才では父親をしのぎ、ハプスブルク家の最も才能のある作曲家といわれています。また、フルートやクラヴサンの演奏では専門家でさえその優雅さにおいて皇帝には太刀打ちできないと評されました。皇帝のもとには世界中から音楽家たちが集まり、宮廷楽団は107人の団員を擁したといいます。

 次のカール六世(在位1711〜45)も作曲したそうですが、楽譜は現存しません。この皇帝、「教授のように最高の技能をもって」クラヴィーアを演奏したと伝えられています。

 皇帝自身が作曲したと伝えられるのはこのカール六世で最後ですが、その後の皇帝たちも音楽には強い関心を示しました。後に女帝となる娘のマリア・テレジアも皇帝カール六世の指揮するオペラのなかでバレーを踊り、アリアを歌ったと伝えられます。