マーラーの生涯
− 苦行の青年期 −



この画像の背景は、「さすらう若人の歌」の第2曲「春の野辺を歩けば」冒頭部のマーラーによる自筆譜です。



ここから先は、グスタフ・マーラー自身に語ってもらいましょう。
(もちろん語りはフィクションですが、起こった出来事や年代は(一応)事実です。)



1.ウィーン音楽院での学生生活

幅の広い環状道路の上には路面鉄道の線路が見られます。
(1880年当時のウィーン環状道路近辺)
ウィーン環状道路は、城塞都市であったウィーンの城壁を撤廃した跡地に造られました。

帝都ウィーン・・・話には聞いていたが・・・すごすぎる・・・前に行ったプラハとは全然比べものにならない!
こんなすごい所で音楽が学べるなんて・・・
当時は期待で胸がいっぱいだった。
でも、不安もあった。うまくいくのか・・・?
プラハの二の舞だけはごめんだ・・・って。

私は1875年(15歳)に、ウィーン音楽協会附属音楽院で音楽を学ぶべく、当時世界にその名を轟かせていた帝都ウィーンに上京した。

そして、私はその地で3年間みっちりと音楽の基本を学んだ訳だ。
もちろん授業は全部出席、講義のサボりや抜け出しなってもってのほか・・・
と、言いたいんだけど、実はけっこう欠席が多かったな。
それも和声法
(複数の声部を重ねるための作曲の基本手法)に対位法(複数の旋律を重ね合わせるための作曲の基本手法)など、作曲に必要な教科ばかり。(笑)

でも言っておくけど、悪かったのは出席率だけで、成績は極めて優秀だった。
2年目の学内ピアノ発表会でシューベルトのピアノソナタを弾いて1等賞!
3年目の卒業時の作曲では、ピアノ五重奏曲
(ピアノ、ヴァイオリン×2、ヴィオラ、チェロの編成からなる室内楽)を発表して、これも1等賞!

それに、もう一つの学舎だったウィーン大学で、ちゃんと和声学をアントン・ブルックナー先生に学んでいたことも付け加えないと。
あの先生の音楽はワーグナーのオペラと同じぐらい壮大で、すごく夢中になっていた。(でも当時はあんまり評判が良くなかったけど。)

そんな中で、学生時代の私の才能を見出し、絶賛してくれた先生もいた。
ピアノのユリウス・エプシュタイン先生だ。
私のピアノを聞いた瞬間「奴は生まれながらの音楽家だ!」なんて言って、学費免除や家庭教師のアルバイトの世話までしてくれた。
まさに、私のウィーンでの「オヤジ」だった。

それから、忘れてならないのは、学友で下宿を共にしていたフーゴ・ヴォルフ(後に優れたドイツ歌曲の作曲家となる)とルドルフ・クルシシャノスキー(後にヴァイマール宮廷楽長となる)で、その当時大流行していたワーグナーのオペラの三重唱を下宿で声高らかに歌っては大家のおばさんにしかられてたな・・・

でも、その内のヴォルフは、学内でのいざこざが絶えずに音楽院を退学・・・と言うより放校処分にされてしまった。
しかも、その後、ウィーン音楽界の大御所ヨハネス・ブラームスへ自分の作品を見せた時に「対位法を勉強しろ」と素っ気なく言われたのを根に持って、強烈なブラームス批判者になってしまった。その作品批評の強烈さたるや、周りから「凶暴な狼
(ドイツ語で”ヴォルフ”、つまり彼の姓と同じ)」と言われたぐらいだ。
そして、その後の1897年に彼とは悲惨な形で再会する羽目になってしまうのだが・・・ それは後にしよう。

このウィーン楽友協会の大ホール(ムジークフェライン)は、特に毎年恒例のウィーンフィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートで、ヨハン・シュトラウスの曲を演奏するので、ご存じの方も多いと思います。
(マーラーが学んだ当時のウィーン楽友協会)
このウィーン楽友協会内にある附属音楽院で1875年から1878年の3年間学びました。



2.認められない作品

さて、音楽院在学中に一等賞を取ったこともあって、私は作曲に対してちょっとばかり自信を持っていた。
そして、卒業試験も「作曲」で受験し、見事に合格した
そう、ベートーヴェンのように作曲で飯が食えるんじゃないかってね。

でも、そう旨くはいかなかった・・・
音楽院で一等賞を取ったものの、実社会では何の箔にもならなかったのだ。

そこで、私は作曲家としてのデビューを果たそうと、(よくあるパターンだが)「ベートーヴェン賞」という、当時もっとも権威のある作曲コンクールに、私の自信作であり、始めての作品番号「1」を付したカンタータ「嘆きの歌」で応募した。
そのドラマチックな展開たるやワーグナーのオペラ並じゃないかってね。

ところが結果は見事落選・・・
(今思えば、ワーグナー臭さが漂うような、この作風が仇になったのかも・・・)

その時はさすがに審査員を恨んだね。
でもまあ、考古学者級古典フェチのブラームス超ウルトラ級ワーグナー嫌いのエヴァルド・ハンスリックなど、審査員の連中はバッハやベートヴェンのような(当時私が時代遅れとして見向きもしなかった)古典的な形式を好んだ連中だったから無理もないか・・・

と、いうことで作曲家デビューに見事失敗した私は、食い扶持を指揮者の道に求めざるを得なかった
でも指揮者は一つの楽団を音楽面で支配できる職業だから、いつか私の作品を思うとおりに発表できる機会があるかも・・・という期待もあったんだ。

そして、これが私の「さすらう」人生の始まりだった・・・




この悲劇の作品は、1901年にマーラー自身の指揮(当時の手兵であったウィーンフィルハーモニー管弦楽団が演奏)で、やっと日の目を見ました。
「嘆きの歌」初演時の
プログラム表紙

1901年,マーラー自身の指揮で、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団が演奏






この当時のマーラーは、口の周りにひげを生やしていました。 これだけひげを生やしていた時期は、他には見られません。
1883年当時のグスタフ・マーラー

3.さすらいの若き指揮者(1)

始めに言っておくが、正直言って私は指揮法を正式に学んだことがない
と言うより、当時の音楽院に指揮科がなかったから学びようがなかった。

だから指揮法は全くの我流で、動きがかなり激しく、一風変わった(と言われた)スタイルだった。
おかげで、後に有名になってからは、風刺画家の格好のネタにされてしまった。

まあ、それはさておき・・・
私の最初の仕事は、1880年(20歳)バート・ハル(オーストリア リンツ近くの温泉地)の小劇場の音楽監督だった。
だが、音楽監督と言いつつ、サポートスタッフが全くいないため、雑用(ピアノ拭きや楽譜の準備、乳児の世話など)も多くやらされるといいう最悪な仕事だった。
全く、そんなに人員不足なら、ウケねらいで指揮やりながら出演者になって一発芸の一つでもやっとけばよかった・・・と、今になってちょっと悔しい。

この仕事を1シーズン限りで抜け出した後は、1881年(21歳)ライバッハ(現スロバキア共和国国境付近にあった町)の州立歌劇場でやっとまともな指揮職に就き、指揮者として好評を得ることが出来た。

より好条件の職場を求めて、その後1883年(23歳)に行った先はオリュミュッツ(現チェコ共和国モラヴィア地方の都市)の帝国劇場だったが、団員にやる気が見られない上に演奏は最悪レベルと来るから、イメージをぶちこわされるとたまらない・・・ということで、私の大好きな作曲家(ワーグナーやモーツァルト)の曲目を外すのにとても苦労してしまった。

ということで、このオリュミュッツも1シーズン限りで抜け出した私は、同年中に、外国(オーストリア・ハンガリー帝国外)であるドイツ中部の都市カッセル王立劇場で働くことになった。
どうやらこのときすでに、指揮者としての名声はドイツにまで知られていたらしい。
だけど、ここの仕事も最悪だった。
ワーグナーオペラの演奏禁止のことなどで劇場支配人とは衝突が絶えず、また当時優れた指揮者だったハンス・フォン・ビューローに師事を願うも断られ、全くいいこと無しだった。

さて、こうしたカッセルの仕事に嫌気がさした私は、1885年(26歳)にあの思い出深き町プラハへ1年限りのドイツ劇場次席指揮者として就任した後、1886年(27歳)ライプツィヒ市立劇場主席指揮者ニキシュのアシスタントとして就任した。

だけどここでも音楽監督のシュテゲーマンと衝突を繰り返し、ニキシュのリタイア後に事実上の主席指揮者となったにも関わらず、オペラの解釈のことでまた衝突して、結局1888年(28歳)辞表を提出する羽目になってしまった。

このような放浪の時代でも、私は作曲もちゃんとやっていて、後世に残る「さすらう若人の歌」(1885年)「交響曲第1番」(1888年)もこのときに完成した。
そして、終生の良き友人、そしてライバルとなったリヒャルト・シュトラウスや、終生その音楽をバカにしまくったチャイコフスキーにもこの時初めて会った。


 

「マーラーの生涯」トップページに戻ります。 続いてブダペストやハンブルグ、ウィーンでの活躍編に移りますが、現在工事中です・・・