マーラーの生涯
− 出生から幼少期 −



この画像の背景は、カリシュトにあるマーラーの生家です。






ベルンハルト・マーラー
(グスタフの父親)
ベルンハルト・マーラー
(1827-1889)


マリー・マーラー
(グスタフの母親)
マリー・マーラー
(1837-1889)

1.グスタフ・マーラーの出生

グスタフ・マーラー(以下グスタフ)は1860年7月7日に、モラヴィア(チェコ共和国の東部地方で中心地はブルノ)との境に近い、ボヘミア(チェコ共和国の西部地方で中心地は首都プラハ)の辺境の村カリシュトで生まれました。

父は酒類製造業者のユダヤ人ベルンハルト・マーラー、母は石鹸製造業者の娘であった同じくユダヤ人のマリー・マーラーで、子供はグスタフも含めて14人(グスタフは第2子)いました。

しかし、半分の7人は様々な病気により成人になる前に死亡しました。

(ちょっと話は先に進んでしまいますが・・・)

その中でも特に、グスタフにとって9ヶ月年下の弟であったエルンストの死(享年13歳)は衝撃的であり、生前にこの年齢の近い弟に対して嫉妬心を抱いていたために、あたかも自分のせいで死んだという罪の意識に囚われたということです。
(後に彼の初の大作となったカンタータ「嘆きの歌」に出てくる”弟殺し”の物語は、この意識が潜在的に込められているとの指摘もあります。)

 

2.才能の萌芽

グスタフが生まれて3ヶ月後に、当時のチェコ・スロバキア一帯を支配していたオーストリア・ハンガリー帝国のユダヤ人居住区域に関する法律が改正されました。
(当時、オーストリア・ハンガリー帝国支配圏内に住むユダヤ人は、職業や居住区域、結婚の条件等まで生活に関して厳しく制限される”被差別民族”でした。このことは、後のグスタフをさんざん苦しめ続けた大きな”足枷”となったのです。)

それによって、マーラー一家はカリシュトからの退去を余儀なくされ、モラヴィア地方の商業中心地イーグラウに移住しました。

そこで、幼いグスタフは母方の祖父母宅で見つけたピアノに夢中になりました。

その時点でグスタフは、音楽家としての”天命”を受けたのかもしれません・・・
それを見た父ベルンハルトはグスタフに音楽の才能を見いだし、本格的な音楽教育を施すため、地元でピアノのレッスンを受けさせた上に、11歳の時には、チェコの首都プラハに留学までさせました。

しかし、プラハ留学は、学友の陰湿なイジメや、滞在先で見た「令息と女中との獣じみた愛欲の場」による心の傷によって、わずか9ヶ月で終わってしまいました。

*:この言葉は後にグスタフの妻となるアルマ・マーラーに本人自ら語ったものだと言われております。




グスタフはこの頃からピアノを弾き出したと言われております。
(グスタフ・マーラー)
5〜6歳の頃に撮影

オーストリア軍 軍楽隊を描いた絵です。 幼いマーラーの居たイーグラウでもこのように行進していたのでしょう。
(オーストリア軍 軍楽隊)
軍楽隊の演奏する勇壮な行進曲は、ピアノ同様に幼いグスタフに多大な影響を与えました。





少年時代のマーラーは、度々この劇場のステージに立つことがあり、”地元の神童”として大いにもてはやされたとのことです。
(イーグラウの劇場)

3.未来への道標

少年時代のマーラー一家は、決して平和なごく普通の家庭ではなく、勉学熱心だが分裂気質で暴君のように振る舞った父親のもと、同じく分裂気質ではあったが夫に暴力を振るわれるままであった母親幼くして死んでいった兄弟達など、かなり凄惨な家庭だったと言われています。

そのため、グスタフもその悲惨な現実から逃れるように音楽の世界にのめり込んでいったと考えられます。
後の彼の作品には、(初期のものから)変わらぬ悲惨な現実を見据えたように、いくら明るい雰囲気を見せても、その裏には必ず暗さ、激しさ、諦観(諦めの境地)、或いは死を漂わせる部分があります。
さしずめ「天国に描かれた地獄絵図(パンデモニウム)」でしょうか・・・
(その詳細は、別項で述べます。)

(ちょっと話が横道にそれてしまいましたが・・・)

さて、わずか9ヶ月のプラハ留学からイーグラウに帰ったマーラーは、町の劇場(左写真)やホテルで演奏のアルバイトをしながら近くのギムナジウム(高等学校)で、文学等の基本的な学問を学びました。

このとき、実家の酒屋の客やアルバイト先で聞いた各地の民謡、当時イーグラウに駐留していたオーストリア軍の兵舎ラッパの音と軍楽隊の演奏、イーグラウの豊かな自然から出てくる鳥の鳴き声家畜の鈴の音などが、グスタフの心に深い感銘を与え、後の音楽に多大な影響を与えています。

また、ギムナジウムや実家の書斎でグスタフが読んだ文学書の数々も、グスタフの後の音楽の持つ文学性に大きな影響を与えました。
それらは特に歌曲声楽を伴った交響曲に色濃く出ています。

そして、グスタフが15歳の頃、ボヘミア地方のある富農がグスタフの名人級のピアノ演奏を聴いて、父親と同様グスタフの非凡なまでの音楽の才能を認め、当時国内最高の音楽教育機関であったウィーン楽友協会附属音楽院での教育を受けられるように援助を申し出たのです。
父親もこれを快諾し、ついにグスタフは帝都ウィーンへの切符を手にし、自らの少年期に別れを告げることとなったのです。

 

 

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