マーラー交響曲第5番 嬰ハ短調
−作曲の経緯−
愛妻に捧げた、言葉なき「愛の歌」

アルマ・マーラー
(アルマ・マーラー)

<グスタフ・マーラーの妻 アルマ>

 アルマ・マリア・シントラーは1879年の8月、ウィーン郊外の生まれである。高名な風景画家であった父エミールは、彼女が13歳のとき死に、母アンナはその後間もなく再婚した。
アルマの継父となったのはカール・モル
(下写真参照)。彼は当時の前衛画家たちのグループ「分離派」の一員でもあった。

 新しい父親の教育方針を象徴する彼の口癖、それは「神様たちと遊びなさい」であったという。この言葉どおり、アルマは17歳になる頃から作曲のレッスンをツェムリンスキーに、読書や芸術鑑賞の指導をブルクハルトに受け始める。両名はそれぞれ当時一流の作曲家、演劇人であったが、20歳になるやならずで作曲を手がけ、ワーグナーを暗譜、ニーチェやプラトンを心の栄養とし、日常語並みにギリシャ語を読み書きするまでに成長をとげた、若くて美しい女生徒に、熱烈な恋をしていたようだ。もっともアルマ本人は継父の同志でもあった画家のグスタフ・クリムト(右写真参照)に夢中だったのだけれども。

アルマの継父となったカール・モル(1905年当時)です。
(カール・モル)

アルマのかつての恋人だったグスタフ・クリムトです。
(グスタフ・クリムト)



<激論で始まった夫婦の出会い>

 「肉食獣のような」とも形容された美貌を、自分への絶対の自信でさらに光り輝かせていた、そのころのアルマが、41歳の宮廷歌劇場付指揮者、グスタフ・マーラーにはじめて出会ったのは1901年の11月、ある夕食会でのことだった。アルマは大胆にもその席上、声望高い有名な指揮者にむかって大声で議論をふっかけたのだ。
「どうしてツェムリンスキー先生の楽譜をちゃんとご覧になろうとなさらないのですか?」
「価値のない作品だからですよ」
「彼はきちんとした作曲家ですわ。見る眼がないのはマエストロの方じゃございませんこと? それにもし、作品がつまらなかったとしても、作者への礼儀は尽くすのが当然でしてよ」
小娘のあまりの剣幕に、ついにマーラーも笑顔をこぼしてしまう。
「……わかりましたよ。仲良くしましょうね」



<長い長い「愛の手紙」から結婚へ>

 「君には今後、たったひとつの仕事しかありません。私をしあわせにすることです。君の役は愛らしい伴侶、理解ある同志です」と断言した上で、「『個性』は男性にのみ稀に見出すことができる」ものだと、アルマの才能を完全否定し、「混乱した精神の持ち主(=ツェムリンスキーやブルクハルトら)」とは即刻縁を切るように命じた挙げ句、「アルマ、どうかまじめになっておくれ」などと、父親のように懇願する――。こんなにも高圧的で、しかも便箋20枚におよぶ特異な長さの手紙を、知り合って間もないマーラーから受け取ったアルマは、一体そこから何を読み取ったのだろうか。最初の出会いから1ヶ月少しあとの12月には「婚約式」が挙げられ、翌春の1902年3月、アルマはグスタフと結婚、「アルマ・マーラー」になってしまった。


グスタフ・マーラーが交響曲を第5〜8番まで作曲した、マイヤーニッヒの作曲小屋です。
(マーラーの作曲小屋)

<怒濤の新婚生活>

 マーラーの日常生活の規則正しさたるや、まさに機械並みで、新妻アルマも当然その一部を科された。そしてその厳格さは、本来休息の機会であるはずの避暑地滞在中も全く変わらなかったという。
夏休み中のマーラーにとって、最も大切な仕事であった「作曲」、彼がこれにとりかかろうとするとき、同時に周囲の人々のいちばん辛い時間も始まった。


私が作曲している間は、絶対に私に姿を見せるな、と厳命されていたメイドは、おかげで急斜面をよじ登るようにして主人に食事を運ばねばならなかったし、アルマはマーラーに騒音をきかせぬために、どうか犬だけは吼えさせないで、と、隣近所に頼んでまわり、お愛想をふりまいて歩く破目に陥る。――そして作曲が終わっても、哀れな妻には安息は訪れない。口笛ひとつで水泳につきあわされ、長い長い散歩のお供をした上、マーラーの枕元で本を朗読……!

「これでは私は家政婦でしかない。私のことなどまるで理解していない人間と引き換えに、すべての友を失ってしまった。もといたところに帰りたい!」我慢の限界を越してしまったアルマを、マーラーはどうなだめてよいやら判らず、まと外れな慰めを言っては、よけいに彼女を興奮させたりしたそうだ。



<愛妻に捧げた、言葉なき愛の歌「交響曲第5番」

 1902年、夏の保養地マイヤーニヒでの、こんな奇妙な休暇が終わったとき、マーラーは5番目の交響曲のスコアを書き上げていた。楽譜の表紙には「私の愛しいアルムシ(アルマの愛称)、私の勇気ある、そして忠実なる伴侶に」と記され、曲はアルマに捧げられた。
 初演は1904年の10月18日、作曲者指揮ギュルツェニッヒ管弦楽団によりケルンにて。日本初演は1932年2月27日、クラウス・プリングスハイム指揮東京音楽学校(現東京芸大)管弦楽団がなしとげた。


以上の部分はフランソワーズ・ジルー原著、山口昌子訳の「アルマ・マーラー ウィーン式恋愛術(河出書房新社刊)」を主要な参考文献として執筆。マーラーの手紙文、アルマの心情告白の部分は同書からの引用。第2連のマーラーとアルマの会話部分は、同書を参考とした筆者の再創作。