1890年、法律の勉強のためペテルブルクに現れた18歳の少年、ディアギレフを芸術家の集団に紹介したのは従兄弟のディーミートリ・フィリソーフォフでした。それから、わずか数年の後には彼はあらゆる芸術活動でリーダーシップをとるようになったというのですから、運命とはわからないものです。

 ディアギレフが最初に興味を示したのは音楽でした。しかし、彼には作曲の才能はなかったようです。リムスキー=コルサコフに弟子入りしたのですが、やがて作曲家への思いをあきらめるよう説得されました(ちなみに、チャイコフスキーもストラヴィンスキーも最初は法律を勉強しています。また、ストラヴィンスキーもリムスキー=コルサコフの弟子ですから、ディアギレフが順調に作曲家の道を歩んでいたら、ストラヴィンスキーにとって同門の先輩作曲家、ということになっていたのです)。

 その後彼は芸術に関する論文を書いたり、絵画展を開催したり、雑誌「芸術の世界」を創刊したりして実力を発揮していきます。

 1899年にマリインスキー帝室劇場の相談役に就任し、ここで舞踏と出会います。しかし、彼が帝室劇場にとどまれたのは1901年までの短い期間でした。

 1905年にはトーリッドで、1906年にはパリで大々的なロシア絵画展を開催しました。パリの展覧会の規模は今日まで越えるものがないほどのものでした。

 1907年と1908年にはロシア音楽の演奏会シリーズを開きました。1908年にはパリでムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」を上演しています。シャリアピンがタイトルロールを歌ったこの演奏会は大成功をおさめました。このとき、ディアギレフ自身が演出・振付を行っていますが、これは後にロシア・バレエ団を結成して以降は見られないことです。

 パリでの大成功はペテルブルクでのディアギレフの評価を高めました。1909年の初めには、ウラジーミル大公の後援を得ることに成功し、パリ・オペラ座でオペラとバレエのシーズンを企画します。彼のもとにはモスクワとペテルブルグの主な舞踏家が集まり始めていました。ところが不幸なことに、ウラジーミル大公が急に亡くなります。後ろ盾を失ったのです。ディアギレフの命運もつきようとしていました...。