注釈

注1:カンテ・ホンド(cante jondo)とは、奥深い歌、という意味です。標準的なスペイン語ではカント・オンド(canto hondo)ですが、アンダルシア・ジプシー風に強く発音したものです。しかし、単に奥深い歌、という意味でなく、シギリーヤ、ソレア、ポロといった、古くからジプシーの間で歌われた一群の音楽を指します。 カンテだけでもフラメンコの歌のことで、一般のスペイン音楽を指すカントとは区別して用いられます。

注2:両親を立て続けに失い、社交界の付き合いも疎ましく思い始めていたファリャは1920年にスペインの首都マドリッドを離れ、グラナダはアランブラの丘の静かな住宅街に移り住みました。グラナダでのファリャは散歩を日課としていましたが、ある日のこと、友人のミゲル・セロンと散歩していて話題が民謡のことになりました。「技巧に走った現在の歌ではなく、昔ながらの、素朴な歌を守らなければならない」と、二人の思いは一致しました。その後、二人はアマチュア音楽家のみの参加によるカンテ・ホンド・コンクールという、当時としてはきわめて斬新な催し物の実現のために精力的に働きかけることになります。主催はグラナダ芸術センター、経済的バックとしては政治家、芸術家、学者等多くの署名を取り付け、市の助成金を得ることに成功しました。かくて、1922年御聖体祭の日に、記念すべきカンテ・ホンド・コンクールは開催されたのです。

注3:ジプシーと呼ばれる民族は漂泊の民として知られるインド・ヨーロッパ系の民族で、ヨーロッパ、西アジア、北アフリカ、南北アメリカ等世界各地に広く散在しています。人口に関しては正確な統計はないのですが、世界中で7〜800万人といわれています。
 ジプシーに対するヨーロッパでの呼称には3系統あります。
 一つは、英語のジプシー、フランス語のジタンフランス煙草の銘柄やアラン・ドロン主演の映画の題名として知られています)、スペインのヒターノ等、エジプト人を意味する言葉から変化したものです。これは、彼ら自身がその出自をエジプトであると信じていたためであるとか、小エジプトと呼ばれるギリシャに長い間とどまっていたためであるとかいわれています。実際に彼らの語彙には多量のギリシア語が借用されており、ギリシアに長くとどまったことは事実のようです。世界中の(広義の)ジプシーの用いる言語は約20の方言に分かれており、(狭義の)ジプシーはそのうちアンダルシア地方から南フランスに住む人々ですが、現在ではすべての方言を含めて、その言語の類縁性から彼らの実際の出自はインド周辺であると考えられています。仏典の言語、サンスクリット語との類縁性が実証されたのです。
 第2の呼び名としては、中世ギリシアでアティンガノス(異教徒)と呼ばれたことから派生し、ドイツ語でツィゴイネル、フランス語でツィガン、イタリア語でツィンガロなどといいます。
 第3番目に、15世紀にボヘミア王が国内通行権を与えたことから英語でボヘミアン、フランス語でボエミアンなどと呼ばれてきました。
 彼らは更に地域ごとに様々な呼び名で呼ばれています。一方、彼らの大半が話すロマニー語で「人間」を表す言葉、「ロマ」を彼らの民族の呼称として用いることがあり、最近ではこれが一般的になりつつあります。これまでに上げてきた呼称は他民族の社会の中でつけられたもので、不幸なことに歴史の中で長く差別と侮蔑の対象とされてきました。もっとも有名な例が、ナチス・ドイツによるアーリア人純血主義の犠牲になったことです(実際にはアーリア人と呼ばれた人々はインド人やイラン人の先祖で、ジプシーはその子孫と考えられるわけですが。ゲルマン民族もジプシーも同じインド・ヨーロッパ語族に属し、文化的には遠い時代の一つの源に続くはずです)。1985年、ドイツ連邦会議においてワイツゼッカー大統領は自国の戦争責任にふれる有名な演説をしましたが、この中で彼はロマという言葉を用いて、ユダヤ人と共に強制収容所の犠牲となったジプシーへの哀悼の念を表明しています。
 音楽の分野においては、フラメンコ・ヒターノ、シギリーヤ・ヒターノといった言葉は定着しており、なによりもスペインの人々の間に彼らの音楽への共感と憧れがなくしてはカンテ・ホンドやフラメンコという高度な芸術は成長し得なかったでしょう。音楽に関してふれるとき、その名称に侮蔑的意味はないと考え、ここではあえて、ジプシーやヒターノという名称を用いています。ただし、上で広義のジプシーと狭義のジプシーという風に使い分けましたように、ジプシーあるいはヒターノという言葉は彼らの民族すべてを指す言葉ではないのです。スペイン国内に関しては、広義のジプシーは、2つのカテゴリーに分かれます。一つは、伝統的な漂泊の生活を続ける人々で、ウンガロ、すなわちハンガリー人と呼ばれます。もう一つがアンダルシアに定住したいわゆるヒターノ、ジプシーです。彼らはお互いにつきあわないどころか、敵対心すら持っているようです。民族間の軋轢において、もっともこじれるのは似て非なる者同士であるという、典型的な例を見るようです。