マヌエル・デ・ファリャとスペイン音楽

 マヌエル・デ・ファリャは19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した、スペインはアンダルシア地方の古都・カディス出身の作曲家です。その作風はスペイン国民楽派的と賞され、スペインに現れた史上最高の音楽家ともいわれています。なかでも、三角帽子の音楽はスペインに古くから伝わる舞曲に深く根ざし、もっとも国民色の強い作品とされています。

 では、ファリャにとっての母国の音楽・スペイン音楽とはどういう音楽なのでしょう?

 1922年、スペインのグラナダで「エル・カンテ・ホンド(注1)と題する小冊子が出版されました。有名なカンテのコンクール(注2)の折りのことです。このパンフレットの著者はコンクールの主唱者、マヌエル・デ・ファリャと目されています。
 このパンフレットの中でカンテ・ホンドの成立の歴史的要因として次の3つの出来事が上げられています。

1.ビザンチン祈祷歌の伝播

 ゲルマン民族の大移動の際、スペインはまずヴァンダル族の支配を受け、続いて西ゴート族の支配(紀元414年〜710年)を受けました。この2民族はともにゲルマンの支族なのですが、なかでも西ゴート族はビザンチン帝国にとどまった際に彼の地の祈祷歌を取り入れました(ビザンチン帝国は今のトルコ周辺)。この歌がさらにスペインの教会に導入されたことによって東洋的な要素の強いビザンチン音楽が伝えられることになったのです。

2.アラビア人の侵入

 時代は更に下り、紀元711年から、スペインは今度はアラビアの支配下におかれます。1492年に再征服(レコンキスタ)が完成するまでの約800年の間に、スペインには様々なイスラム文化が伝えられました。その中には当然音楽もあったというわけです。

3.ジプシー(注3)の移入

 1447年6月11日、バルセローナにジプシーが現れました。これが文献的に残っているスペインのジプシーの最古の記録です。その後ジプシー達はスペインの奥深くへと移り住み、歌と踊りの巧みなジプシーアンダルシアの音楽の出会いがフラメンコを生みました。

 それでは、こういった背景から生まれたカンテの特徴としてはどのようなことが上げられているのでしょう?

 パンフレットの中では「古代の旋法によっていること」「半音より更に微妙な細かい音程を持つメロディー」「はっきりとしたリズムを持たないこと」がビザンチンの音楽に由来すると主張されています。また、歌い手や、歌い手を励ますかけ声「オレー」は、イスラム教で用いられるアラーの神への呼びかけ「ワッラー(アッラーに賭けて)」に由来するように、イスラム文化の影響も顕著です。ジプシーがよく用いる装飾的な節回しは感情が高揚したときに用いられます。音の跳躍が6度を超えないことや、同じ音が執拗に繰り返され聴く者を巫術的恍惚境に誘うことも特徴として上げられています。         

 ファリャの上げた特徴は、一部を除き(たとえば、スペイン音楽で用いられる旋法は、今日では古代旋法のドリア旋法や教会旋法のフリギア旋法とは別のものであると考えられています。詳細はミの旋法の項参照)今日でも妥当とされています。しかし、その起源について、ビザンチンやイスラムの影響については、文献的な証拠は殆ど何もありません。ゴート族やアラビア人は支配者階級を占めたのみなので、民衆の音楽にどれだけの影響力を持ったかは疑問です。むしろ、もっと古くから民衆の間に伝わっている音楽に源流を求めるべきなのかも知れません。

 ファリャの生まれたカディスは、ローマ人の前に地中海を制したフェニキア人がガデスの名で建てた街です。スペインという国名自体、野ウサギの多い土地という意味のフェニキア語に由来しているといいます。フェニキア時代のことはあまり文献に残っていませんが、古代ローマ時代、ガデスといえばバエティカすなわち今日でいうアンダルシアを代表する街で、アンダルシアの娘達はどこの出身であろうと「ガデスの娘」とよばれたそうです。そして、ローマの風刺詩人、歴史家らはこぞって「ガデスの娘」の歌と踊りを褒め称え、彼女らがいかにローマでもてはやされたかを物語っています。1世紀に活躍した詩人、スペイン、サラゴーサ生まれのマルティアリスはその詩の中で放埒に踊る「ガデスの娘」のことをうたい、また、ある将軍の凱旋を記念式典で彼女らが「みだらでふざけ屋の足」と金属製カスタネットで人々の心を捉えたと記述しています。このあたりにすでに今日のフラメンコの原型が見られる気がしませんか?