ショスタコーヴィッチ・交響曲第5番
−スターリニズムの中で−

「……二年生になって読み方の勉強をしたあと、すぐに読んだ話は、パーヴリック・マローゾフのことでした。『パーヴリックは子どもでしたが、英雄になったのは、どんなことがあったからでしょう?』先生の質問に、アーニャが手をあげて答えました。『自分のお父さんとお母さんを当局に訴えたからです。お父さんとお母さんが富農(*)だったのです。私たちは富農を愛することはできません。祖国より親を愛するのは、恥ずべきことです』『よくできました。アーニャ』」(旧ソ連時代のモスクワで少女期を過ごしたニーナ・コスマンの体験談集『レーニンよりママが好き!』より)

今世紀の最も有名な交響曲のひとつであろう、ショスタコーヴィチの「第五番」――。1937年に初演されたこの曲を、スターリンらソ連政府首脳は「果敢に闘い抜いて勝利をつかみとる前向きな精神と、力強くも健康的なメロディを備えた正しい音楽」と聞き、「こうした芸術作品によって国民はさらに好ましい方向に導かれ、われらが理想国家ソビエトの建設にも一層の拍車がかかるであろう」と歓迎した。

だが「第五番」が初演されたころのソビエトが恐怖の季節のただなかにあったことを、無視することはできない。肉親よりも国家が大事、思いやりや愛情は恥と、幼い子供に叩きこみ、密告が愛国者の行為として奨励される時代に、ショスタコーヴィチは生きたのだ。国への不満や、反対意見があるというだけで、あるいはそう疑われただけで、星の数以上の人々が命を奪われていった。「『パーヴリックは正しいことをしたと思います。わたしも、もしパパとママが悪いことをしたら、祖国ソビエト連邦を選びます。両親が愛しているのは、わたしとおにいちゃんだけですが、祖国は人民すべてを愛しているからです……』わたしは、自分が書いた感想文に、とてもいやな気持ちがしました。でも、仲よしの友だちもふくめて、みんながこんなふうに書いているのです」(同書より)

だが、一方では、本音をかくすことがそのまま自分の命を守ることであったこの時代にあっても、ショスタコーヴィチは当局にとうてい喜ばれないような問題作、野心作の作曲を止めていない。特定の人物や事件などを示すメロディやリズムを多数考案し、自作品中でひそかな、しかし痛烈な政治批判を繰りひろげていた、ともされる。権力者からは歓迎された、彼の「第五番」から響いてくる、輝かしくも硬直したような凱歌を、突き刺さる鉄の矢のようなリズムを、亡霊のような和音を、私たちはどう聴けばよいのだろう?

「……書き終わって、万年筆をふると、インクがページのまん中に飛びちって、マローゾフという名のうしろの部分が、『マ』だけを残して消えてしまいました。でもわたしは、自分がウソっぱちを書かなければならないのなら、ページがインクだらけで読みにくい方が気が楽でした。わたしはその感想文のことを両親に話しませんでした。そのかわり、決して心配をかけないことで、パパとママを愛していることを示そう……そのためには、学校でいい子になるよう努めなければなりません。そうすれば、次の父母会で、先生はわたしのことをほめてくれるはずです」(同書より)


*富農=私欲の命ずるままに財産を蓄えた農民のこと。富の公平な分配の実現を妨げる反逆者とみなされ、厳罰に処せられた。


参考文献:
「レーニンよりママが好き!」 ニーナ・コスマン著 ゆあさふみえ訳 あすなろ書房刊



文:上柿泰平(パーカッション)