蝶々さんのいた「長崎」

−19世紀末の長崎−

オペラ「蝶々夫人」の原作となったロングの短編小説「蝶々夫人」の内容から、このオペラの話は恐らく19世紀末、それも日清戦争前後の1890年代(恐らく第1幕が1891年頃で第2幕が1894年頃)を想定しているようです。

では、その頃の蝶々さんのいた「長崎」はどのような都市だったのでしょうか?
写真
(古写真絵はがきから所蔵元の許可を得て転載)も交えながら説明しましょう。

ちなみにこのページの古写真は、蝶々さんが住んでいたと思われる旧外国人居留地(現グラバー園付近)付近から撮影されたものと考えられますので、これらの風景は、蝶々さんが夫ピンカートンの帰りを信じて眺め続けた当時の風景とほぼ同じものと思って頂いてもいいでしょう。

ついでに言いますと、オペラ作曲者のプッチーニを始めとして、台本作者のイッリカやジャコーザは、日本には一回も来たことがなかったので、これらの風景を実際には全く知らなかったと思います。
(話ぐらいは聞いていたと思いますが・・・)



(蝶々さんが見た長崎:その1)

<19世紀末の大浦天主堂の裏から眺めた長崎湾と港>
所蔵:長崎市立博物館 (許可を得て転載) 

第1幕、シャープレス領事が汗を拭き拭き息を切らせながら丘を登り切ったときに
「長崎、海、港・・・」と感嘆して言う場面がありますが、このような景色でしょうか。
そして、夫の軍艦を必死で見つけようとしていた蝶々さんにとっても・・・?

現在の長崎湾と港(筆者撮影)



長崎については、皆さんは江戸時代の「出島」(1636年完成)の存在(学校の歴史教育では必ず出てましたね)から、外国への玄関口としてご存じかと思います。
確かにその通りで、幕末(江戸末期)になって出島以外への外国人居留が始まると、1868年(慶応3年)に開港したばかりの神戸(異人館や旧外国人居留地などで有名ですね)と同様に、外国建築が多くなって、ハイカラな町並みも見られるようになりました。
1871〜1873(明治4〜6年)にかけて、東京〜長崎〜上海(長崎〜上海は海底回線)の電信回線も開通しています。

グラバー園やグラバー邸で有名なイギリス人トーマス・グラバーが長崎を起点として、船舶や兵器関連の貿易事業を手広く展開し、近代日本の発展に貢献していたのも、この幕末〜明治初期の頃です。
彼は事業展開や産業振興の他に、伊藤博文など幕末の志士たちの支援(留学の援助など)も行っていました。


(蝶々さんが見た長崎:その2)

<19世紀末の長崎港と市街地の一部>
所蔵:長崎市立博物館 (許可を得て転載) 

明治の長崎は数少ない外国への玄関口の一つであったので、
その周辺も家が密集していたりと、栄えていたこともよく分かります。
写真の中にある道は、蝶々さんのいた丘へと続く道なんでしょうか?
となると、蝶々さんやシャープレス領事が登ってきた道と言うことになりますね。


さて、オペラ「蝶々夫人」の舞台となった明治中期の長崎は、ちょうど1889年(明治22年)「長崎市」となって、市政がスタートしています。
当時の人口は約5万4千人(現在は約42万人)で、当時からそこそこの規模を持つ都市であったと思われます(ちなみに同年に市政となった神戸市は当時約13万人でした)。

アメリカ(領事館職員宿泊所)やフランスの領事館も既に建っており、外国船舶の行き交いもかなり多かったと思われます。
(このページの写真からも分かりますね。)

こうして写真を見ると、いくら望遠鏡を持っているからといって、蝶々さんがこれだけ多くの行き交いする船の中から、1隻の軍艦を見つけるのはなかなか至難の業のような気がしますが・・・


(蝶々さんが見た長崎:その3)

19世紀末の大浦川付近の長崎湾
所蔵:長崎市立博物館 (許可を得て転載) 

この写真は(その1)よりも東側の視点から撮影されたものと考えられます。
船の往来の多さや家の密集具合から、当時からの繁栄ぶりが伺えます。
ちなみに、湾を挟んだ対岸には、当時大規模かつ最新鋭の造船設備を誇った
「三菱合資会社三菱造船所」(現:三菱重工業(株)長崎造船所)がありました。

現在の大浦川付近の長崎湾(筆者撮影)

第2幕第1場で、有名なアリア「ある晴れた日に」の歌詞の中で、
(上のアリア名のリンクをクリックすると、その音楽が聴けます)
蝶々さんは「港に白い船が・・・」とピンカートンの軍艦を想像して言いますが、
現在見ることができる「白い船」はこんな感じでしょうか。
どう見ても普通の客船、少なくとも「軍艦」じゃないですね(笑)

現在見ることのできる「白い船」(筆者撮影)


三菱造船所など造船関係の産業も盛んで、港湾重工業都市としてかなりの発展を遂げており、その証として、日本初の鉄橋(1868年完成のくろがね橋)や鋼鉄船舶(1887年完成の夕顔丸)ができたのも長崎だったのです。


また、長崎とは直接関連がありませんが、幕末からアメリカやイギリス等の諸外国から押しつけられていた、治安や通商上の不平等条約(治外法権注)、関税自主権の喪失)のうち、治外法権が撤廃されたのが、蝶々さんが自害したと思われる明治27年(1894年)のことでした。
この当時から、日本はようやく西欧諸国と同じような力を付けてきたと、多少は認められてきたわけです。
(不平等条項が全て撤廃されたのは、明治44年(1911年)、日露戦争後のことです。)

注)治外法権
日本国に住む外国人に対して、日本の法律が適用されないということで、この問題が主にクローズアップされるのは、外国人が日本国内で犯罪を犯したときです。
1885年(明治10年)に起こったノルマントン号事件など、治外法権によって、日本国内の外国人犯罪に対して、日本の国内法より圧倒的に軽い罪しか与えられないことが数多くあったため、国内での反発も多くありました。
ちなみに、この治外法権下で外国人の罪を裁くのは、当該国の領事でした。
オペラ「蝶々夫人」で考えると、シャープレス領事がアメリカ人の日本国内(長崎)での犯罪を裁いていたということになります。はたして彼は公平に自国民を裁いていたのでしょうか・・・?