(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

「歌劇王」ジュゼッペ・ヴェルディ

−波乱の人生と不朽の名作オペラ−



晩年のヴェルディの写真
ジュゼッペ・ヴェルディ
(伊:1813-1901)
 

アントニオ・バレッツィの肖像画
<ヴェルディの恩人>
アントニオ・バレッツィ

(伊:1798-1867)
再婚を廻ってヴェルディと
一時不和となりますが、
一生を通じて彼の支援を
続けてきました。


オペラ(歌劇)「ナブッコ」「アイーダ」などの名作イタリア・オペラを次々に作曲し、「歌劇王」と称された大オペラ作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ(正式名:ジュゼッペ・フォルトゥニオ・フランチェスコ・ヴェルディ)は、1813年10月10日にイタリア北部のパルマ近郊にある寒村レ・ロンコレに 、貧しい宿屋兼食料品店の息子として生まれました。

(蛇足ですが、日本のサッカー選手 中田英寿が2年間在籍していたACパルマの前の名称は、ヴェルディの出生地が近かったことにちなんで、「ヴェルディFC」という名前でした。)

ヴェルディの音楽的才能は幼いときから芽生え始めていました。8歳の頃には教会の手伝いを通じてオルガンに興味を持ったことから、両親にねだってスピネット(小型の鍵盤楽器)を買ってもらい、教会のオルガン奏者から音楽の手ほどきを受けるようになって、さらに10歳の頃には教会のオルガン奏者にまでなりました。
地元ブッセートの名士にしてアマチュアクラリネット奏者のアントニオ・バレッツィは、こうしたヴェルディの音楽的才能に惚れ込んで、ブッセートでの彼の本格的な音楽教育に尽力し、さらにはイタリア音楽の本場の大都市ミラノで学べるようにまで尽くしました。

しかし、ミラノでの真の本格的音楽教育となるミラノ音楽院への入学は、年齢制限や彼の当時の音楽的才能が凡庸の域を脱していなかったことから、ついに果たされませんでした。

(この受験失敗が、彼の音楽教育に対するコンプレックスや、オペラ作曲に対する並ならぬ執念への原動力の一つとなります。)


(最初の結婚から家庭崩壊へ)
 
ミラノで一応の音楽の基礎を勉強したヴェルディは、ミラノでのオペラ作曲家としての成功を夢見つつも、恩人バレッツィの要請もあって、ブッセートに帰り、音楽学校の教師となりました。
そして、美人で知られたバレッツィの娘のマルゲリータと結婚し、一男一女の子供をもうけました。 ・・・が、そこで待っていたのは、彼の人生最大の不幸となる「家庭崩壊」の悲劇でした。

まず、1838年にわずか1歳7ヶ月の長女を病気で亡くし、そしてそれを忘れるためなのか、1839年には一家でミラノに引っ越しますが、 同年にそこで長男を亡くし、ついには翌1840年に妻 マルゲリータが天候不順による体調不良で髄膜炎となり、帰らぬ人となりました。
ここに、ヴェルディ以外の家族が全員死亡するという「家庭崩壊」の悲劇が起きてしまったのです。ショックから、彼はうつ状態になっていまいました。

マルゲリータの肖像画
<最初の妻>
マルゲリータ

(伊:1814-1840)
バレッツィの娘で、自宅の
居候時代のヴェルディと
ピアノ連弾を通じて親密に
なり、結婚に至りました。
哀れにも感染症による
髄膜炎で27歳の生涯を
閉じてしまいます。

・・・しかも、その時ヴェルディが作曲していたのは、皮肉にもコミック・オペラ(お笑いオペラ)だったのです。
そんな心理状況で作曲したコミック・オペラは見事に大不評を買い、そのこともあって、ヴェルディは故郷のブッセートに逃げ帰り、いわゆる「ひきこもり」になってしまいました。
 

(出世作「ナブッコ」から二度目の結婚、大人気ゆえの「苦役の年月」へ)

さて、そんな廃人同然の彼にオペラを作曲させようとする「物好き」が半ば強引に彼の元を訪れます。
かつて世話になったスカラ座支配人のバルトロメオ・メレッリでした。
メレッリは強引にヴェルディに旧約聖書に原案を得た「ナブコドノゾル」の台本を渡し、彼に強く作曲を勧めました。
始めは強く拒否していたヴェルディでしたが、(単純ながらも)台本の中にほとばしるひたむきな宗教心や愛国心は、彼の枯れた心に強く響き、ついには彼に作曲の再開を決意させました。

−「ナブッコ」の大ヒットから大オペラ作曲家へ−
 

そうして1842年に生み出されたオペラ「ナブッコ」(ナブコドノゾル)は、他国の占領などで分裂状態にあった当時のイタリアにおいて、人々の愛国心を強く刺激し、祖国統一運動の気運にも乗って、記録的な大ヒット作品となりました。
(ストーリーや背景などの詳細はオペラ「ナブッコ」の紹介ページにあります。)

この「ナブッコ」の大ヒットを受けて、その後、彼は内外の多くのオペラ劇場からオペラの作曲依頼を受けることとなり、1年に1曲のペースで新作オペラを作曲するという「苦役の年月」(ヴェルディの回想から出た言葉)に突入します。
そこでも彼は、超多忙なそれらの依頼をこなしつつ、新しい表現や音楽技法の獲得に血道を上げていました。

また、プライベートでは、「ナブッコ」でアビガイッレ役を歌ったジュゼッピーナ・ストレッポーニとの仲が親密になり、周囲に祝されない仲であったにもかかわらず、同棲生活を始めました。

ジュゼッピーナの肖像画
<二番目の妻>
ジュゼッピーナ
(伊:1815-1897)

1846年にヴェルディとの
同棲生活を始めますが、
正式に結婚式を挙げた
のは、1859年でした。
彼女はヴェルディの伴侶と
して、死ぬまで彼を支え
続けることとなります。

−イタリア愛国者の合言葉は"Viva VERDI!"−

ヴェルディの「ナブッコ」以来の初期の作品は、「ジョヴァンナ・ダルコ(ジャンヌ・ダルク)」(1845年)「レニャーノの戦い」(1849年)といった、イタリア人の愛国心を刺激する、いわゆる「愛国路線」オペラが大半を占めていましたが、特に「レニャーノの戦い」の初演後には、聴衆から"Viva VERDI!"(「”ヴェルディ”万歳!」)という言葉が叫ばれました。
これは、作曲者の「ヴェルディ(Verdi)」をたたえると同時に、 当時のイタリア・サルディーニャ島の王であり、イタリア統一王として国民に嘱望されていた「イタリアの王たるヴィットリーオ・エマヌエーレ(Vittorio Emanuele Re d'Italia)」をたたえる言葉にもなっていたのです。

"Viva VERDI"と壁に書き殴って称賛するイタリアの民衆
("Viva VERDI"と壁に書き殴って称賛するイタリアの民衆)
 

(「愛国路線」から「心理路線」への転換)

ヴェルディの初期の作品は、当時のイタリアの政治情勢とマッチしていた(あるいはさせていた)こともあって、出す作品がほぼ全て大ヒットを飛ばしていたのですが、さすがは大オペラ作曲家、大衆迎合の「愛国路線」に満足することなく、次の作風へと転換を図ります。
それが、1850年代から作曲された「リゴレット」
(1851年)「トロヴァトーレ」(1853年)「トラヴィアータ(椿姫)」(1853年)などといったヴェルディの中期の作品群で、愛や憎しみ、悲しみといった人間心理の描写を主体とした「心理路線」オペラです。
そして、これらの「心理路線」と、これまでしばしば作曲していた「グランドオペラ」
(合唱やバレエがふんだんに盛り込まれた豪勢な作風のオペラ)を発展・融合させた「総決算」とも言うべき作品が「アイーダ」(1871年)です。

さらに忘れてはならないのは、ヴェルディが心から尊敬していたイタリアの大詩人アレッサンドロ・マンゾーニ
(1785-1873)の死をきっかけに作曲した宗教曲の大傑作「レクイエム」(1874年)です。
(映画やテレビのBGMとして汎用されている"Dies Irae(怒りの日)"
(←MP3形式:320KB)は有名ですね。)
 

(ヴェルディの「半隠居」とワーグナーの「楽劇」)
 

リヒャルト・ワーグナーの肖像画
<「楽劇」の創始者>
リヒャルト・ワーグナー

(独:1814-1840)

大きなスケールの大傑作「アイーダ」と、オペラの手法をふんだんに取り入れた宗教曲「レクイエム」で、ヴェルディのオペラ作曲家としての地位は不動のものとなりましたが、彼には自分を超えるかもしれないライバルとして、非常に気になる存在がありました。
アルプスを挟んだ北側の国、ドイツで活躍していた大オペラ作曲家リヒャルト・ワーグナーです。
ワーグナーは、本来オペラの伴奏でしかない音楽と、本来の主体となる演劇を対等に一体化した「楽劇」を創始し、シナリオもスケールの大きい「神話もの」(北欧神話など)を主体にして、全ヨーロッパ的な人気を獲得していました。

そして、その人気ぶりは、ヴェルディが君臨していたイタリアにも波及していて、徐々に「楽劇」人気が増しつつあったのです。
その当時のヴェルディは、「アイーダ」や「レクイエム」で自分のもてる全ての作曲・演出技法を発揮し、また趣味で始めた故郷での農場経営に没頭していたため、半ば「隠居」状態にありました。
しかし、だからといってオペラ作曲をあきらめたわけでなく、ワーグナーの活躍を苦々しく思いつつも、「アイーダ」以上の作品が生み出せる機会を虎視眈々と狙っていました。
 

(イタリア・オペラの「究極奥義」−「オテロ」と「ファルスタッフ」)
 
そして、「アイーダ」初演から9年経った1880年、彼は絶好の題材を手にします。
それはイギリスの大劇作家ウィリアム・シェークスピア作の「オセロ」
(イタリア語読みで「オテロ」)、 キプロスのムーア人(北アフリカのイスラム教徒)将軍オセロの栄光と悲劇を描いた 近世戯曲の大傑作です。
かねてからシェークスピアに憧れを持っていたヴェルディは、この台本に見合うほどの音楽をつけるべく、さらに6年もの歳月をかけてじっくりと作曲にかかりました。

1887年に初演されたオペラ「オテロ」は、これまでのヴェルディ作品にない音楽と演出の斬新さ、そして「楽劇」にも負けないストーリーの崇高さとスケールの大きさから、イタリア中から驚きと絶賛の声が上がりました。むろん、初演当時から大人気を博したのは言うまでもありません。

「オテロ」初演の6年後の1893年にも、同じくシェークスピアの喜劇を題材として作曲した喜劇オペラ「ファルスタッフ」
(英語では「フォルスタッフ」)を作曲し、これも大ヒットしました。
この作品は、イタリア語の発音や語感をフルに生かしつつ、聞き応えのあるアリアを軽くさらっと流してしまう作風で、イタリア語の知識がなければよく分からないような「言葉遊び」的な要素が強く出ています。

ウィリアム・シェークスピアの肖像画
<ヴェルディの「憧れ」>
ウィリアム・シェークスピア
(英:1564-1616)

言わずとしれた有名なイギリスの劇作家です。
「リア王」「ヴェニスの商人」などの名作は、舞台や映画の題材としてもよく使われています。

ヴェルディは1847年に「マクベス」を作曲していましたが、あまり成功しなかったため、常々それ以上の作品を作曲したいと願っていました。

この「オテロ」「ファルスタッフ」は、「歌劇王」たるヴェルディ自身、そしてイタリア・オペラにとっての「究極奥義」とも言えるべき作品で、「楽劇」に匹敵するほどの スケールの大きさと品格を享楽中心だったイタリア・オペラに与えました。
 

(「究極奥義」のもたらした皮肉な結果−ヴェリズモ・オペラの隆盛)

しかし、これらの「究極奥義」は「究極」ゆえに、これに匹敵する高尚な作品をつくろうとする後進の作曲家が現れなくなってしまったのです。
また、それは聴衆もしかりで、イタリアの民衆もこれ以上の高尚化を望んでいませんでした。彼らの望むものは堅苦しくなく、理屈抜きで楽しめて、気軽に口ずさめる歌やメロディがいっぱいの かつての享楽中心のオペラだったのです。

そして、イタリア・オペラは高尚化とは逆の方向へと進みマスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」に代表される「ヴェリズモ・オペラ」
(現実に即した激しさを持つワイドショー的内容のオペラ)がもてはやされるようになりました。

1890年頃、ミラノのカフェ・コーヴァで他の音楽家と席を共にするヴェルディ
(1890年頃、ミラノのカフェ・コーヴァで他の音楽家と席を共にするヴェルディ)
テーブルの右端の椅子に座って話をしているのがヴェルディです。
一方、左端で正面を向いて座っている男性が「カヴァレリア・ルスティカーナ」で
ヒットを飛ばした当時の若きマスカーニ、その右隣で同じく正面を向いて
座っている男性がオペラ「マノン・レスコー」で売り出した若きプッチーニです。

本当にあった光景かどうかは定かではありませんが、微妙に視線を逸らす
感じのマスカーニと、熱心に聞き入っている感じのプッチーニを見ると、当時の
両名のヴェルディに対するスタンスが微妙に感じ取れるような気がします。

そのころにはヴェルディも高齢に達し、もはや自分が出しゃばる時代でもないと思ったのでしょうか、「ファルスタッフ」以降、彼はオペラを作曲せず、悟りの境地に達したかのような宗教曲を作曲するようになりました。
 

(人生最後の孤独と大仕事、偉大なる老人の死)
 

晩年のジュゼッピーナの写真
ジュゼッピーナ
晩年の写真

1897年、老齢のヴェルディを人生最後の悲劇が襲います。
彼を長年支え続けたジュゼッピーナが肺炎でこの世を去ったのです。
最愛の人の死に二度も立ち会ってしまったヴェルディは、ひたすらに「孤独だ!私は寂しい・・・!」と嘆くばかりでした。

しかし、さすがに「歌劇王」たる偉大な老人、ここで絶望にくれることなく、人生最後の大仕事に取りかかります。
・・・それは「憩いの家」老齢でリタイアした音楽家たちのための老人ホームの建設です。

当時、ヴェルディのように国民的英雄になった作曲家や、「ヴィルトーソ」と言われるまで超絶技巧を極めた演奏家など、老後の暮らしに困らないような音楽家はわずかで、多くの音楽家の老後は悲惨そのものでした。
その現状に心を痛めていたヴェルディは、少しでもその悲惨さを和らげるべく、豊富に蓄えた私財をなげうって、「憩いの家」の建設に心血を注ぎました。

そして、19世紀が終わり、20世紀になったばかりの1901年、最後の大仕事を終えたヴェルディは脳内出血で88歳の大往生を遂げました。
19世紀のイタリア・オペラ界を常にリードし続けてきた「歌劇王」ヴェルディの葬式とその葬列には、25万人とも言われるイタリア国民が集まり、葬儀の場では、 当時のミラノ・スカラ座常任指揮者アウトゥーロ・トスカニーニ
(1868-1957)の指揮により、かの出世作「ナブッコ」の有名な合唱「行けわが思いよ、金色の翼に乗って」が演奏されました。

ミラノでのヴェルディの葬列の写真
(ミラノでのヴェルディの葬列の写真)
ミラノはヴェルディが数多くのオペラを初演した縁の深い土地でした。
彼の葬列の写真には、「歌劇王」の最期を見届けようする人々が街道を
いっぱい埋め尽くし、さらには建物の窓からも乗り出して見ようとする
人々の姿までもが写っています。

 

文・構成: 岩田 倫和(チェロ)

2005.10.29作成
2005.11.9改訂

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