(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」

−その1:作曲者ピエトロ・マスカーニ−




青年期のピエトロ・マスカーニの写真
<作曲者> 
ピエトロ・マスカーニ
(1863-1945)

ピエトロ・マスカーニについて>

歌劇(オペラ)「カヴァレリア・ルスティカーナ」イタリアを代表する歌劇(オペラ)作曲家となったピエトロ・マスカーニは、1863年12月7日にイタリア・トスカーナ州(州都はフィレンツェ)の西岸の港町リヴォルノに生まれました。

彼の家は、音楽家とはほど遠いパン屋だったのですが、父親は息子のピエトロを
(パン屋の主人ではなく)法律家にしたかったそうです。
しかし、マスカーニの興味は音楽にあったため、父親の期待通りには行かず、叔父の取り計らいで地元リヴォルノの音楽学校で学ぶことになりました。

そして、そこで実力をつけた彼は、イタリア音楽教育界の名門であったミラノ音楽院へ入学高名な作曲家ポンキエッリ
(1834-1886)の元で本格的に音楽を学ぶことになりました。
(ちなみにその時の学友で、貧乏から一緒に同じ部屋で共同生活までしたのが、同じく後の大オペラ作曲家となるジャコモ・プッチーニでした。)

(「エリートコース」からの転落、そしてオペラ作曲への挑戦)

これまで音楽家としての「エリートコース」を歩んできたマスカーニですが、ここでなぜか音楽院での勉強がいやになり、音楽院を中退したばかりか、故郷にも帰らず、ついに「流浪の身」となってしまいます

しかし、彼はただむやみに逃げ出したわけでもなく、旅回りのオペレッタ(喜歌劇とも言われる軽い作風のオペラ)一座に身を置いて指揮者として活躍するなど、大衆に即したオペラというものを身をもって学んでいたのです。

そして、「流浪の身」から足を洗った彼は、故郷を遠ざけるかのようにイタリア東端のプーリア州にある町チェリニョーラ( 同名のオリーブの品種で有名)音楽学校の教師をしていました
が、一度は音楽家としての志を立てていた彼は、やはり作曲への道はあきらめきれず、ついに1889年にイタリアの音楽出版社ソンツォーニョ社が当時主催していた1幕ものの短編オペラ作曲コンクールに渾身の作品を応募します
そして、その作品は数多くの応募作品の中から見事に一等入選を果たしました。
(ちなみにマスカーニの学友プッチーニは、その前の1883年に同じコンクールに応募したものの、あえなく落選しました。しかし、その後ソンツォーニョ社のライバルの音楽出版社リコルディ社に才能を見いだされ、ヴェルディに次ぐ大オペラ作曲家への道を歩むことになります。)

・・・それが、歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」です
(筋書きなど作品の詳細は次の項で説明します。)

この作品は、大衆に即した筋書きのわかりやすさとそれを彩る美しい音楽で、当時の高尚化する一方のオペラに半ばついてこれなくなったイタリアの大衆の心をつかみ、記録的な大ヒットをとばしました
特に1890年首都ローマでの初演時の大衆の歓迎ぶりには、かつてないほどの熱狂さがあったとのことです。

若きオペラ作曲家ピエトロ・マスカーニは、この1作品のみでイタリアを代表するオペラ作曲家の仲間入りを果たしたのでした。
 

(「一発屋」マスカーニ−その後の衰運と孤独な死)

さて、世紀の大作「カヴァレリア・ルスティカーナ」を作曲した後のマスカーニは、次なる大ヒット作も期待され、次々と新手のオペラを作曲しましたが、ついに「カヴァレリア・ルスティカーナ」を超える大作を創り出すことはできませんでした

そう、残念ながら彼は処女作の「カヴァレリア・ルスティカーナ」で爆発的にヒットしすぎてしまったため、その後にオペラ「友人フリッツ」などの優れた佳作を発表し、指揮者として大活躍しても、どうしても「一発屋」のイメージを払拭することができなかったのです。

そうして20世紀も半ばにさしかかり、老年となった彼は、作曲家としての自分の人生に限界を感じたのか、今度はオペラ劇場の支配者・・・それもイタリア一の名門、ミラノ・スカラ座の劇場監督を目指そうとしました
そして、当時の政権であったファシスタ党の宰相ムッソリーニ
(1883-1945)に近づき、なんとかその地位を自分のものにしようとします

ところが、第二次世界大戦でイタリアが連合軍に敗れ、ムッソリーニが失脚したことから、彼は逆に「ファシズムの片棒を担いだ」と糾弾され、全財産を没収されるという、人生最後にして最大の憂き目にあってしまいます。

そして、1945年8月2日、イタリア大衆の心をつかんだ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の作曲者ピエトロ・マスカーニは、最期にはそのイタリア大衆から無視されるかのように、50余年前に熱狂的に迎えられた首都ローマのホテルの一室で 、かつての栄光の面影もなく寂しく世を去ったのです。

大衆の熱狂の中で迎えられ、大衆の無視の中で死んでいく・・・まさに
(自業自得とはいえ)運命の皮肉としか言いようがありません。

 

文・構成: 岩田 倫和(チェロ)

2005.9.27作成

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