(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

歌劇「アイーダ」

−その1:オペラ作曲の経緯−


オペラ「アイーダ」作曲の経緯>


「歌劇王」の心を動かした壮大な「愛」の物語
 

1870年頃(オペラ「アイーダ」作曲当時)のヴェルディの写真
<作曲者> 
ジュゼッペ・ヴェルディ
(1813-1901)

−「アイーダ」の世界初演に作曲者あらず−
過剰なほどの宣伝と、お祭り騒ぎの周辺に嫌気がさして・・・

「・・・たった1つのオペラに何という
お祭り騒ぎなのか!
・・・あふれるほどの新聞記者たち、歌手たち、
指揮者たち、合唱団員たち、演奏者たちなど・・・
そしてほかのたくさんの人々が、オペラにとっては
何の価値もない些細な額縁を形成せんがために、
宣伝という建物の石を運び込まねばならないのだ。
あぁ、何と嘆かわしい、何と嘆かわしいことか・・・!」

(ミラノの雑誌関係者に送ったヴェルディの手紙から)

1871年に初演されたオペラ「アイーダ」は、その後の「オテロ」「ファルスタッフ」に次ぐヴェルディの最高級の傑作で、かつ演奏規模(必要とされる楽器編成や合唱団、バレエ団など)もイタリア・オペラ最大級の超大作です。
と、同時に彼が第三者の依頼に基づいて作曲した最後のオペラでもあります。(その後の2作は自らの意志で作曲しました。)
 

(作曲依頼の背景)
−スエズ運河の開通とカイロのオペラ劇場の完成−
 

1870年頃(オペラ「アイーダ」作曲当時)のイスマイル・パシャの肖像画
<依頼主のエジプト太守> 
イスマイル・パシャ
(1830‑1895)

オペラ「アイーダ」の作曲が依頼された背景には、1869年にエジプトで起こった2つの大きな出来事がありました。

それは、「スエズ運河の開通」「カイロのオペラ劇場の完成」です。

オペラ「アイーダ」は、これらの記念オペラとして、当時のエジプト太守
(副王)イスマイル・パシャに作曲を依頼されていたものだったのです。
(だからオペラの舞台がエジプトとなったわけです。)


<中東情勢に翻弄されたスエズ運河−開通当時の水彩画(1869年)
スエズ運河は1859年に元外交官のフランス人フェルディナント・レセップス(1805-1894)
の指揮下で着工され、10年という長い工事期間と、12万人と言われるエジプト人工夫の
犠牲(殆どが炎天下の作業による脱水死)を伴いながらも、何とか1869年に完成した。

運河の利権は始めは施工した側のフランスとエジプトにあったものの、その後の巧みな
謀略と敗戦によるフランスの没落により、1875年にイギリスが管理権を完全掌握した。
その後約70年間も運河を管理したイギリスは、通行料の莫大な利益を得ることとなる。
しかし、1956年には再びエジプトの管轄におかれ、数多くの植民地の独立も相まって
イギリスは「大英帝国」としての威信を失い、「世界帝国」の地位をアメリカに譲る。

1960年代に運河は船舶の大型化に合わせて大規模な拡張工事が行われたが、
その際に日本の五洋建設(旧 水野組)が危険な中東情勢の中、約20年におよぶ
難工事に挑んだ話はNHKの「プロジェクトX」の題材ともなった有名な話である。
(詳しくは五洋建設作成の「スエズ運河改修プロジェクト」のページを参照のこと)
 

−「アイーダ」の原案と原作の作成−
 
イスマイル・パシャは、1869年に開通したスエズ運河の開通を記念する壮大なオペラを、ぜひとも(ほぼ同時期に完成した)カイロのオペラ劇場で演奏したいと考え、その題材の提供を当時のエジプト考古学者の頂点にいた考古局長のフランス人オーギュスト・マリエットに依頼していました。

マリエットは自分たちの業績で得た以下の事項を元ネタとして、「ナイルのフィアンセ」と称する政治劇の絡んだラブストーリーを考えつきます。
アイーダのストーリーをご存じの方は、これらの元ネタが何を意味しているか、もうお分かりですね!)
  • 古代エジプト新王国 第20王朝のラムセス3世治世時代(紀元前1198-1166)の 末期に起こったとされる陰謀と裁判記録
     
  • メンフィスの神殿跡から発見された一組の男女の遺骨

これを原案として、同じくフランス人のカミーユ・デュ・ロークル(1832-1903)がフランス語の散文体(そのままオペラの歌詞に出来ないような小説風の文章)オペラの原作を書き上げました。

オーギュスト・マリエット・ベイの写真
<オペラの原案者> 
オーギュスト・マリエット
(1821‑1881)

マリエットはは1858年にエジプト考古局長に就任しました。

彼は音楽史上ではオペラ「アイーダ」の原案と基本的な衣装デザインを担当したことで有名ですが、考古学史上でも、20以上の遺跡発掘や発掘した秘宝の近代的陳列法による宣伝力強化など、考古局長にふさわしい働きをしました。


−原作者デュ・ロークルの出世欲が絡んだヴェルディの作曲−

さて、イスマイル・パシャは、原作をマリエットに依頼する一方で、要となるオペラ音楽の作曲をイタリアのヴェルディ、フランスのグノー、ドイツのワーグナーの大作曲家3人に絞って依頼することにしました。
ところが、真っ先に依頼したヴェルディは一度ならず二度までも作曲を断ってしまったのです。
これには、前作のオペラの改訂作業や趣味の農場経営などいろいろと忙しかったことに加え、もはや無理してまで依頼を受けなくとも生活には困らないほどに、彼が「歌劇王」としての立場を確立しつつあったこともありました。
ところが、この「お蔵入り」したヴェルディの新作オペラの作曲をしきりに勧めたのが、前出の原作者デュ・ロークルでした。

デュ・ロークルは当時、フランスの名門オペラ劇場だったオペラ・コミック座の支配人を目指しており、そのためには自分のオペラ台本作家としての「ハク」をさらに付ける必要がありました。
そこで、彼はかつてヴェルディにオペラ「ドン・カルロ」
(1867年初演)のフランス語台本を作成したという縁を利用して、しきりに自分の原作を使ったオペラの作曲をヴェルディに勧めていました。

そして、デュ・ロークルが提案した数々の原作の中で、ヴェルディの心をつかんだのが、前出のマリエットの「ナイルのフィアンセ」に基づく「アイーダ」の原作だったのです。
ヴェルディはこの原作に基づくオペラなら・・・と作曲を決意し、1870年に作曲に取りかかりました。

正式なオペラ台本は、デュ・ロークルが散文体の原作をフランス語のオペラ台本に変換したものを、さらに
(ヴェルディに縁の深い)歌手兼台本作家のアントニオ・ギスランツォーニ(1824-1893)がイタリア語にして作成しましたが、ヴェルディ自身もこの台本作成には大いに関与し、中にはヴェルディ自身の作による台詞(歌詞)もあります。

このように、作曲と台本作成を同時に急ピッチで進めるという「突貫工事」で、オペラ「アイーダ」の制作は進み、その甲斐あって、作曲開始からわずか4ヶ月後には総譜が完成しました。
 

(作曲者不在の世界初演)
−待ちに待った大騒ぎのカイロ初演、入場料は「黄金」!?−

さて、オペラ「アイーダ」の総譜と同時に豪華な舞台セットも完成し、後はカイロへそれら一式を運び込むだけとなったその時、フランスとプロイセン(当時のドイツにあった一王国)の戦争が勃発し、その影響でエジプトへの移動が出来なくなるという大アクシデントが発生しました。
おかげで、オペラ「アイーダ」の初演は約1年以上も延期される羽目となり、結局は作曲の翌年1871年の12月になって、ようやくカイロで初演できる運びになりました。

しかし、その初演の延期は、新たに思わぬ副産物をもたらしていました。
オペラ「アイーダ」は、大作曲家にして「歌劇王」のヴェルディが久しぶりに満を持して作曲した大作なのですから、ただですら前評判はすごいものとなっていたのに、さらに1年以上も「じらされた」結果、その前評判とそれに付随した宣伝が度を超したものとなって、初演を前にして大フィーバーの様相を呈してきたのです。
(ちょうど発売日が順延されまくって、前評判と期待ばかりがオーバーにふくらんでしまった超人気ゲームソフトのような感じです。)
こうした周囲のバカ騒ぎにヴェルディは辟易して(冒頭文参照)、招待されていたにもかかわらず、ついにカイロでの世界初演には行かなくなってしまったのです。

そして、1871年12月24日、皆が待ちに待ったオペラ「アイーダ」の世界初演が作曲者不在のまま行われました。
作曲者不在にも関わらず、カイロのオペラ劇場周りは大騒ぎで、地元の金持ちが「黄金」で劇場への入場料を払うなど、オペラ劇場はエジプトやヨーロッパのブルジョア達の虚栄心を満たすための「一大パーティー会場」と化していました。
(現代で言うと、超大作ハリウッド映画のワールド・プレミアムと同じような状態だったわけです。)

大騒ぎの初演は前評判通りの大成功のうちに終わり、エジプトの観客は「古代エジプト王国の栄光」を再現した豪華な舞台に大満足したとのことです。
 

(世界初演後のオペラ「アイーダ」)
−ミラノ・スカラ座でのヨーロッパ初演から全世界へ−

まさにカイロ初演は、ヴェルディが最も嫌っていたブルジョア達の「お祭り騒ぎ」だったのですが、彼はオペラ「アイーダ」に対して「今までの作品の中で最も欠点の少ない作品」と言って(控えめながらも)相当の自信を持っていただけに、ヴェルディは自分のセンスが十分に生かせる上に、聴衆も気心が知れているミラノ・スカラ座でのヨーロッパ初演に全力を注いでいました。
そして、母国での初演のために
(と言うよりヴェルディの愛人だったアイーダ役のテレーザ・シュトルツのために)新たにアリア「おお、我が祖国よ」を追加した、現在の形のオペラ「アイーダ」は、カイロ初演から6週間後の1872年2月8日にミラノ・スカラ座で初演され、(今度はちゃんと出席した)作曲者のヴェルディは聴衆の惜しみない大喝采を浴びました。

その後、オペラ「アイーダ」はヨーロッパ各地のみならず世界中で演奏され、そのたびにミラノ・スカラ座と同じような喝采を浴び続けました。
ちなみに、日本での初演は、1919年
(大正8年)9月1日に東京の帝国劇場で行われており、その時の演奏はワシリエフ指揮のロシア大歌劇団でした。

 

文・構成: 岩田 倫和(チェロ)

2005.11.12作成

演奏会記録のページに戻ります。 歌劇「アイーダ」より(その2:オペラのストーリーについて)に続きます。