(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

メンデルスゾーン
交響曲第3番「スコットランド」

−曲の概要(その4)−


交響曲第3番「
スコットランド」作曲の沿革>

−構想12年の大作「スコットランド」交響曲完成へ−

(メンデルスゾーンのベルリン凱旋)
−人生最大の痛恨こそ「スコットランド」交響曲完成の礎−
 

プロイセン国王 フリードリッヒ・ウィルヘルム4世の肖像
ウィルヘルム4世
(独:1795-1861)

 ’40年、父王の跡を継いでプロイセン国王に即位したフリードリッヒ・ウィルヘルム4世(1795-1861 在位1840-61)は、あらゆる分野で活躍する著名な芸術家たちを首都ベルリンに呼び集め、大学などでの公職に就かせて後進の指導にあたらせ、同時に創作活動に専念しやすい環境を整えてやれば、彼らの発表する新作に国民は激励、鼓舞され、その結果国全体にも活力がみなぎり繁栄が実現する、と考え、「王立芸術アカデミー」なる機関を設立、その音楽部門の長にはベルリンとゆかりの深いメンデルスゾーンを就任させたいと望んだ。

メンデルスゾーンは当初、この種の組織の存在価値を疑い、なかなか受諾しなかったが、結局は家族のすすめに従い、’41年に妻子とともにベルリンに移り住み、件の職に就いた。

 だがメンデルスゾーンを待っていたのは苦々しく、虚しい日々だった。
オーケストラの団員たちは、ライプツィヒのプレーヤーたちより数段低い技量しか持ち合わせていないにもかかわらず、メンデルゾーンを自分たちのリーダーと認めず、ことあるごとに反抗的な態度をとった。そしてメンデルスゾーンが推し進めようとしていた音楽学校の組織と教育制度の改革も、音楽に理解のない官吏たちの怠慢と事なかれ主義のなかに埋没し、ほとんど成果を挙げられなかった。
メンデルスゾーンは特にどうということのない仕事ばかりをして毎日を過ごすはめに陥り、写譜や編曲といった非創造的な作業で時間をつぶすばかりだった。

 ところがこの空疎な時間こそが、長年未完成のままであった『スコットランド交響曲』の作曲を大きく進展させることとなる。
なすこともない空き時間はやがて、偉大な創造の時間となった。

’41年の夏以降、第3楽章、第4楽章の草稿が何枚も書かれ、試行錯誤が繰り返されはしたものの、ついに’42年1月、全曲の楽譜を書き上げるにいたる。
その後も時間の許す限り修正が加えられ、同年3月3日メンデルスゾーン本人の指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏による初演が実現したのだった。

1829年、スコットランドのホリルード城で最初の旋律を電撃的に着想してから実に12年。20歳だった青年は32歳の高名な音楽家になっていた。
 

(「スコットランド」交響曲の改訂作業)
−最大の傑作を更なる高みへ−

 もっともメンデルスゾーンはこれでこの曲を「完成」とはしなかった。
曲が実際の音として鳴り響くのを耳にした経験を踏まえ、より理想とする音像に近づける目的で、第1楽章の途中をカットし、終結部は拡張した。そして第3楽章の終結部は短くして音楽を簡潔にし、第4楽章の終結部では主旋律をより浮き立たせるために使う楽器を変更した。この種の修正は翌’43年3月にこの曲の楽譜が出版されるまで加えられ続ける。
とりわけ興味を惹くのは第1楽章の終結部に施されたそれで、初演後にいったん拡張されたその部分は、最終的には再び短くされて現在の姿となった。
 

(メンデルスゾーン 7度目のイギリス訪問)
−栄光に包まれた”黄金のヴィクトリア朝”訪問と御前演奏−
 

ヴィクトリア女王の戴冠式の絵
狭い坑道内で石炭を運ぶ子供の労働者

<”黄金のヴィクトリア朝” その光と陰−産業革命がもたらしたもの>
(上の絵:ヴィクトリア女王の戴冠式、下の絵:子供の炭鉱労働者)

上の2つの絵は、いずれも19世紀当時のイギリスを象徴するものである。
上は後に”黄金のヴィクトリア朝”と称される、大英帝国の絶頂期を告げるヴィクトリア女王の戴冠式、下はその栄光に全く浴することなく、炭鉱経営者たる資産家の下で 、安い労働力として奴隷のようにこき使われる子供の炭鉱労働者の姿である。

”黄金のヴィクトリア朝”をもたらしたのは、ひとえに大英帝国の王侯貴族や資産家など、俗に言う「ブルジョア階級」への莫大な「富の集中」である。
そして、その莫大な「富」の源は、もっぱら「植民地からの搾取」と「安い労働力の酷使」によるもので、特にその傾向は産業革命による工場制手工業から機械制大工業への産業構造の転換が行われてから、より顕著なものとなった。

機械制大工業の発展は大量生産・大量消費をもたらし、それは同時に多くの資本や労働力、生産・消費地、そして膨大なエネルギー源 (当時は石炭)を必要とした。
そのため、イギリスは更なる植民地の開拓や貿易、石炭採掘に精を入れることとなるが、その際に植民地住民や国内貧困者層の酷使によるルール無用の「 搾取」に等しい生産や、生産物のあこぎな輸出(インド産のアヘンを清(当時の支那王朝)に輸出して金銀を得た「アヘン貿易」は有名)などで、 世界規模の「荒稼ぎ」を行った。

メンデルスゾーンの見てきた「大英帝国」は当然ながら「光」の部分で、彼はその輝かしいばかりの工業力と経済力に圧倒されるばかりであったが、その陰には、このような搾取と過酷な労働に苦しめられた名もなき人々の姿があったのである。

 長年の苦吟にようやく決着をつけたメンデルスゾーンは、同じ’42年から5月からは妻を伴って7度目の訪英をした。この時も彼は、この国の聴衆、音楽関係者たちから、これまでと変わらぬ大歓迎を受ける。
メンデルゾーンが新作「スコットランド交響曲」を披露して彼らを大いにわかせたのは入英の翌月、6月のことだった。
 

1840年2月10日のヴィクトリア女王とアルバート公の結婚式

<ヴィクトリア女王とアルバート公の結婚式(1840年2月10日)

1840年にヴィクトリア女王は、ベルギー国王レオポルド1世の勧めに従って、自分の従兄弟に当たるザクセン=コーブルク=ゴータ公アルバートと結婚した。

アルバート公が女王と同じドイツ系出身でために、「正統なるイギリス人」の王族血統を望んでいた国民にとって、二人の結婚は決して芳しいものではなく、不信感すらあった。しかし、妻のため国家のために粉骨砕身で公務に当たる彼を目の当たりにするうちに、いつしかそのような国民の不信感はなくなっていったという。

そんな夫の献身ぶりは、公私にわたってヴィクトリア女王の大きな支えとなった。
それだけに1861年の彼の死は女王にこの上なく大きなショックを与え、以後彼女は生涯喪に服し、公務にほとんど就くことはなかったという。

 

ビクトリア女王の御前でピアノを演奏するメンデルスゾーン
ヴィクトリア女王の御前で
ピアノを演奏するメンデルスゾーン

 程なくメンデルスゾーンはバッキンガム宮殿に参内し、2年前に結婚したばかりのヴィクトリア女王と、その夫アルバート公に謁見した。
声楽をたしなむ女王と、作曲に興味を持ち、鍵盤楽器の演奏も得意とした公は、ともにこの国にあまたいるメンデルスゾーン・ファンの一員だった。

宮殿に据え付けられてあったオルガンをメンデルゾーンが弾けば、夫妻はそれに合わせて歌い始める。3人はメンデルスゾーンの歌曲を何曲か歌い、親密なひとときをすごした。

メンデルスゾーンは苦心の果てに完成させた自らの新しい交響曲を、その最初のインスピレーションを受けた土地を治めている、この23歳の女王に捧げた。音楽を愛する女王の感激はいかばかりであったろうか。

 

文: 上柿 泰平(パーカッション)
構成・一部補筆: 岩田 倫和(チェロ)

2006.3.15作成

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