(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

メンデルスゾーン
交響曲第3番「スコットランド」

−曲の概要(その3)−


交響曲第3番「
スコットランド」作曲の沿革>

−「スコットランド」交響曲の作曲を阻んだもの−

(メンデルスゾーンのイタリア訪問)
−余りに大きすぎた「スコットランド」とのギャップ−
 

ヴェネツィアの大運河でのレガッタ

<イタリア・ヴェネツィア夏の風物詩、大運河のレガッタ(ボート競技)

ヴェネツィアで夏に開催される最大級の祭りがこの絵に描かれているレガッタである。
暑い夏の太陽に照らされ、色とりどりのボートに乗って人々の歓声に包まれながら運河を漕いで行く様は、まさに太陽溢れる南国イタリアの象徴とも言える壮観さだろう。

しかし、メンデルスゾーンは自分のセンスに叶った人物に出会えないこともあって、こういった陽気な情景を楽しみきれず、ある種の苛立ちを覚えていた。
60作以上の傑作イタリア・オペラを作曲した大家ドニゼッティやローマ大賞で優勝した若き天才ベルリオーズなど有名な作曲家たちがそこにいたにもかかわらず・・・
メンデルスゾーンにとって、そこの芸術家云々より、このイタリアのもつ陽気で騒々しい魅力自体が逆にある種変にうっとうしく感じられたものだったかもしれない。

ちなみに、それを最大限に肯定し、いろんな意味でこの上ない喜びを感じたのが、それから約50年後にイタリアを訪問した(メンデルスゾーンとは逆の、躁鬱な作風を得意とする)チャイコフスキーで、喜び溢れる「イタリア奇想曲」を作曲した。

 1829年暮れに帰独したメンデルスゾーンは、翌’30年の10月から’31年の6月までイタリアに滞在し、この国のさまざまな風物にふれることができた。明るい太陽を浴び、温暖な地中海を横目に見つつ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマでは美術館や教会をまわって名画や彫刻に接し、ナポリやポンペイの名所旧跡も歩き、ちょうどローマ留学中であったベルリオーズと親しく交遊する・・・・
といった体験の一方で、イタリア人たちが祝祭日に見せる下品な騒ぎっぷりや、各地のオーケストラの団員たちの技量と意識の低さに憤慨したりもしたのだったが、こうした原色的に強烈な、めまぐるしい日々は、霧に閉ざされた暗い、荒涼とした土地で最初のインスピレーションを得た音楽の創作を前進させることはなかった。

メンデルスゾーンを照らしたイタリアの太陽は、かわりにはじけるような明るさ、一瞬もとどまることのない躍動感、燃えさかる情熱が全篇を覆う音楽を書くヒントを彼に与える。
この曲が交響曲第4番『イタリア』として完成したのはこの4年後のことだった。
メンデルスゾーンがこの曲の初演の機会に間に合うように『スコットランド』をも完成させ、2曲を同時に披露するつもりでいたことが、この時期の彼の手紙から読み取れるが、それはかなわなかった。
 

(苦痛に満ちたデュッセルドルフの仕事)
−理想にはほど遠い、音楽監督として忙殺される毎日−

 そして’34年から’35年にかけての時期にも、『イタリア交響曲』の改訂作業に取り組みながら、知人などへの手紙の中では繰り返し、『スコットランド』完成への意欲を語っているのだが、彼がその仕事に本腰を入れて取り組んだ形跡は認められない。
何よりそのころのメンデルゾーンは、音楽家としてはじめて就任した公職・デュッセルドルフ市の音楽監督としての仕事に忙殺されていた。

そのころの母への手紙にも
「作曲をしようとして座っていると、1時間ごとにベルが鳴るのです。不平を言う合唱団員をなだめたり、下手な歌手を教えたり・・・・こんな事が一日中続くのです」
とある。

オーケストラとべートーヴェンのある序曲を練習していたときには、楽団員たちのいい加減な演奏態度に業を煮やし、彼らの面前で楽譜を引き裂いたこともあった。
すでに書き上げた曲の修正というのならばともかく、未だ構想段階にある作品を完成させる時間など、あろうはずもなかった。
 

(幸福に満ちたライプツィヒの仕事)
−理想的な楽団との至福の日々・・・しかし交響曲は完成せず−
 

メンデルスゾーンがいた当時のゲヴァントハウス音楽堂の水彩画

<ライプツィヒ・ゲヴァントハウス音楽堂(当時の水彩画)

ゲヴァントハウス音楽堂を拠点とするゲヴァントハウス管弦楽団は、1743年から32人のメンバーによる公的な活動の記録があるものの、設立当時は巡業がメインの楽団で固定した活動拠点を持っていなかった。
それを支え、安定した運営を実現させたのが、他ならぬライプツィヒの一般市民の代表たちで組織された運営委員会であり、この楽団は有名無名の地元市民の代表による自主運営で見事に成り立っていた。
その拠点ゲヴァントハウス音楽堂は、「市民の誇り」とも言える建物であった。

これは貴族階級の権力がいまだに幅を利かせ、市民階級との経済力の差も大きく、「オーケストラは王侯貴族の持ち物」という概念が残っていた当時にあって、画期的とも言える運営方法で、まさに「市民による市民のためのオーケストラ」のさきがけであった。

 メンデルスゾーンがつぎに『スコットランド』の作曲に取り組んだのは’37年から’38年にかけてのことだった。
この当時の彼はすでにデュッセルドルフの職を辞し、ライプツィヒを活動拠点とする名門楽団、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督の地位に在った。
このときの彼もやはり多忙であったが、その質はといえば、前任地でのそれとは大きく異なっていた。

 J.S.バッハやヘンデル、ハイドン、モーツァルトそしてベートーヴェンといった、古い時代の巨匠たちの作品に敬意を払い、以前から日常的に彼らの楽曲を演奏し続けていたメンデルスゾーンは、ライプツィヒにおいても、「歴史音楽会」と称する、言ってみれば耳で聴く音楽史年表とでも呼ぶべきシリーズコンサートを立ち上げ、古い音楽を体系的に紹介する一方で、親交のあったシューマンやベルリオーズらの「現代音楽」をも積極的に紹介し、多方面から聴衆の知的好奇心に訴えた。
シューベルトの『大ハ長調交響曲』
(交響曲第8番「ザ・グレート」)を発掘して初演したのも、時期こそほんの少しあとのことながら、このころの彼が果たした偉業のひとつに数えられる。
また楽団のリーダーとしても、オーケストラ団員たちの給与アップや人員の増員といったことがらを実現し、その手腕のほどを示している。
こうしたことを通じて、もともと高い水準にあったライプツィヒの音楽家たち、聴衆たちはあらゆる意味でより高いレヴェルへと導かれていったのだった。

1840年当時のゲヴァントハウス管弦楽団
<1840年当時のゲヴァントハウス管弦楽団>

 その演奏の水準を日に日に高めていくゲヴァントハウス管弦楽団と接するうち、この楽団のために、そしてこの楽団を愛してくれる聴衆たちのために新しい交響曲を書こう、と、メンデルスゾーンはごく自然に考えるようになったことだろう。
しかも彼の手許には、長年来一向にはかどらない『スコットランド交響曲』の作曲という大仕事があった。

やがて第1楽章の主要部分がごく簡単な、メモ的な書き方の楽譜として書き起こされ、長年やりのこしてきた彼の「宿題」もようやく完成への道をたどり始めたかと思われたが、実際に完成にまでたどり着いたのは、それと並行して書き進められていた交響カンタータ『賛歌』、すなわち今日のわれわれが、彼の「第2交響曲」として認識している、声楽つきの大規模なオーケストラ曲だった。この曲は’40年6月に初演されることとなる。
 

 このように、’29年に着想された「スコットランド交響曲」はとうとう’30年代中には完成しなかった。

公人としてのメンデルスゾーンの多忙さと、私人として経験した’35年の父の死、’37年のセシル・ジャンルノーとの結婚、そしてその後あいついだ子供たちの誕生といった事件が、それには少なからず関わっているものとも考えられるが、’40年代にはいるや状況は大きく変化してゆく。

セシル・メンデルスゾーンの肖像
フェリックスの妻セシル

 

文: 上柿 泰平(パーカッション)
構成・一部補筆: 岩田 倫和(チェロ)

2006.3.14作成

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