(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

メンデルスゾーン
交響曲第3番「スコットランド」

−曲の概要(その2)−


交響曲第3番「
スコットランド」作曲の沿革>

−意外に早かった「スコットランド」交響曲作曲の契機−
 

(メンデルスゾーンのスコットランド訪問)
−若きフェリックスを魅了した荒涼たる自然と素朴な土地柄−

音楽家として大活躍し、夜毎のパーティーでは多くの人たちと名刺を交換するかたわら、わずかな暇を見つけては幼なじみクリンゲマンと街へ繰り出し、一青年としてプラム・プディングやチェリー・パイをほおばり、下町の料理屋でカニ料理に舌鼓を打ち、美しい娘たちと言葉を交わしたといっては嬉々とし・・・・
といった調子で、メンデルスゾーンのロンドンでの日々は瞬く間に過ぎていった。
イギリス到着から2ヶ月、7月の訪れとともに音楽シーズンは終わりを告げ、ドイツへの帰国予定日も迫って来るなか、メンデルスゾーンクリンゲマンはイギリス滞在のうちあげもかね、イギリス北部のスコットランド地方を周遊する楽しい旅に出かけることを思いたった。

 

スコットランド・ハイランド地方ヒースの丘の写真

<スコットランドの北部、ハイランド地方 にあるヒースの丘>

大ブリテン島の北部を占めるスコットランドは、地理的な面において、南部の首都エディンバラや中部の中核都市グラスゴーを中心とする中部低地(ロウランズ又はロウランド地方)と、写真のような草原が主で(寒冷地で大木が出にくい)、比較的厳しい自然環境にさらされている北部高地(ハイランズ又はハイランド地方)に分けられる。

南部のロウランド地方には肥沃な土地があり、多くの異民族の侵入を受けたことから、豊かで多種多様な文化が形成されたが、北部のハイランド地方は厳しい自然環境の中、異民族の侵入は最低限に抑えられたこともあり、氷河期時代の古代先住民ケルト人の時代から、石を中心とした独特の文化圏が形成されていた。

紀元1世紀から2世紀頃に大ブリテン島南部を制圧し、この地に侵攻したローマ人は、当時の先住民ピクト人の頑強な反撃を受け、ついに征服することができなかった。
ローマ人は大ブリテン島南部を「ブリタニア」と名付けて属州としたが、制圧に失敗した北部は「カレドニア」(森の国という意)と名付け、ハドリアヌス・ウォールなどの壮大な防護壁を設けるなどして、逆に北部の異民族の侵入を防いだ。

ちなみに、現在の「スコットランド」という地名は、古来はアイルランドの先住民であったケルト民族の一派、スコット人(古代ゲール語で「襲う人」という意)によって、かの地が「襲われて」征服されたために名付けられたものである。

 この旅行で彼らは、イギリスで最も高い山ベン・ネヴィス峰のふもとになだらかに広がる高原地帯スコットランド・ハイランズを気ままに歩き回った。
都会育ちのメンデルスゾーンにとって、田舎の気取らない、素朴な習俗はとても新鮮なものと感じられたようで、ある旅籠に逗留したときのことを

「荒れ果てた農場・・・・私たちは暖炉の火のそばにゆったりと座り、スリッパの代わりにスコットランドの木靴をはいています。空には雲がうら寂しく流れています・・・・。風や雨の騒々しい音、酔っ払った召使たちの歌声、話し声、犬のほえる声、戸がバタンと閉まる音が聞こえるにもかかわらず・・・・静かです。静かで、荒涼としています。」

などと、両親にあてた手紙で仔細に報告するなどしている。
 

(「スコットランド」交響曲への霊感)
−重厚な建造物と悲劇の歴史にインスパイアされた楽想−

 また二人は「3人の美しい娘のいる家庭」にしばらく滞在させてもらったり、高名な小説家ウォルター・スコットの家を訪問したり、産業都市グラスゴーを見物するなどして、数々の楽しい思い出を作ったのだったが、この旅の最も創造的な、偉大な瞬間はスコットランドの古都、エディンバラのホリールード宮殿に足を踏み入れたときにやってきたのだった。このときの印象もまた、家族宛の手紙で詳細に描写されている。

エディンバラにあるホリールード宮殿の写真

スコットランドの首都エディンバラにあるホリールード宮殿>

このホリールード宮殿は、現在はイギリス王室のスコットランドでの正式な居住地となっているが、元は12世紀頃にあったとされる礼拝堂を16世紀初頭に当時のスコットランド王ジェイムズ4世が宮殿に改修したのが始まりとされている。

この宮殿は本文にあるように、メアリが王国政務の中心を担っていた1560年代には、不倫や暗殺など陰惨な歴史の舞台となったが、その真向かいには、その地を起源とする有名な蒸留酒スコッチ・ウイスキーの蒸留所があった(現在はスコットランド議事堂)ように、歴史の悲惨さを忘れさせるようなミスマッチさを醸していた。

「今日夕方おそく、私たちはメアリ女王が住み、また愛した宮殿に行きました。そこで見るべきものは回り階段を上ったところにある小さな部屋で、殺害者たちは階段を上っていって、その部屋でリツィオを見つけて彼を引き出し、そこから部屋を三つ隔てた薄暗い角で彼を殺したのでした」

 ここで語られているのは・・・・最初の結婚生活をを夫の死によって絶たれ、失意のうちにスコットランドに戻ったメアリは、最初のうちこそ老臣たちの指導の下、実直に政務にあたったが、ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚したころから権力に対する野心を抱くようになり、側近のリッツィオとは不倫の関係を結んだ。これに怒ったダーンリー卿は二人を亡きものにし、スコットランド王の地位をも我がものとしようと謀る。差し向けられた刺客の凶刃に、リッツィオはあえなく命を落とすが、メアリは自分がダーンリー卿の子を身ごもっていることを明かし、難を逃れる----という故事である。

メアリとダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの肖像画

ダヴィッド・リッツィオの肖像画

ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートとメアリ、ダヴィッド・リッツィオ>

左の絵は再婚した当時のダーンリー卿ヘンリー・ステュアート(1545-67)とメアリ・ステュアート、そして右の絵はイタリアの音楽家でメアリの秘書、不倫相手でもあったダヴィッド・リッツィオ(1533?-66)である。

メアリは元はスコットランドとフランスの同盟維持のため、15歳でフランス皇太子妃として嫁ぎ、ゆくゆくはフランス王妃となる予定であった。が、頼みの皇太子フランソワが病弱で子を作らぬまま早逝してしまったため、やむなくスコットランドに帰国したのが彼女の悲劇の始まりだった。

フランス風のスマートな男性を求めた彼女は、それに見合った男性で従兄弟のダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと、彼に王位継承権をも与えるという破格の待遇で再婚したものの、すぐにその愛は冷めてしまい、リッツィオとの不倫関係に陥ってしまう。
そして、その不倫が嫉妬に狂ったダーンリー卿によるリッツィオの殺害、そしてその報復を図ったメアリによる(とされる)ダーンリー卿の爆殺へとつながっていく。

手紙はなおも続く。

「その横にある礼拝堂は今は屋根がなく、草や蔦が生い茂っていた。そこの壊れた祭壇の前でメアリはスコットランド女王として即位したのでした。あたりすべては壊れ、朽ちている。そうして明るい空が覗き込んでいる。私は今日ここで私の『スコットランド交響曲』の出始めを思いついたのです

ホリールード宮殿隣にあるホリールード・アベイの廃墟

ホリールード宮殿の隣にあるホリールード・アベイの廃墟>

ホリールード宮殿が建設される16世紀以前にあった礼拝堂の廃墟である。
今でこそ廃墟となってしまったが、元はデイヴィッド2世(1324-71)以来の代々のスコットランド国王が埋葬された由緒正しき修道院(アベイ)だった。

前文の通り、1542年メアリ・スチュアートはスコットランド女王として即位したが、その歳何と生後6日目、父である前国王ジェイムズ5世の30歳での早逝を受けてのことだった。
ジェイムズ5世はメアリの生誕時には既に病床にて瀕死の状態にあったが、正統な世継ぎとなる王子(男児)をことごとく失った彼にとって、自分の最後となる子は一縷の望みであった・・・が、生まれた結果は女児で、それを聞かされた王は"a lass!"(ああ、女か)とつぶやいたという。これは"alas"(ああ、哀しい)という意味も含んでおり、瀕死の彼にとっては、生きる気力を完全に失せさせる「最期の一撃」だった。

 悲運の姫君も稀代の悪女となり果て、幾人もの命を犠牲にしつつ天下をうかがい続けた挙句、断頭台の露と消えた。
かつてはきらびやかに飾られ、彼女が日々の祈りを捧げたであろう礼拝堂も今は見る影もなく、苔むした床を陽の光が照らし出している。この世に永久不変のものなど在りはしない。どんな人も物も次々に生まれては消えてゆく。そしてどんな栄華も権勢も-----。
メンデルスゾーンの心をそんな感慨がよぎったとき、哀調のにじむひとつの旋律が生まれた。

『スコットランド交響曲』完成への最初の一歩がここに踏み出されたのだった。

1587年フォザリンゲイ城にて処刑されるメアリー・スチュアート

1587年2月8日に処刑されたメアリ・スチュアート>

メアリはダーンリー卿爆殺後に、爆殺の首謀者とされるボズウェル伯ジェイムズ・ヘバーンと再々婚したが、それはまさに彼女の破滅を決定づける出来事であった。
疑惑に満ちた再々婚は貴族や国民の大々的な反発を招き、それが契機となって彼女は廃位された。廃位を不服として反乱軍を結成したものの、見事に惨敗した彼女は従姉妹のエリザベス女王の治めるイングランドへの亡命を余儀なくされた。

その後彼女はイングランドで亡命中の身でありながら、「イングランドの正統な王位継承権は私にある」(実際、エリザベス女王の従姉妹であったことから本当であった)などと、イングランドの王侯貴族たちの反発を招くような不用意な言動を繰り返した。しかもエリザベス女王暗殺(未遂)という陰謀にも荷担したという疑惑も絡み、ついにエリザベス女王がその宣告を渋ったにも拘らず、彼女は罪人として死刑を受けるに至った。

1587年2月8日、ノーサンプトンシャーのフォザリンゲイ城のホールにて、彼女は斧で斬首された(上の絵の背中を見せて立っている男が持つ斧に注目)が、その際に斧の1発目が外れて彼女の頭蓋を打ち砕いてしまうなど、その有様は上の絵のような荘厳さはなく、凄惨を極めたという。

彼女が斬首された瞬間、周囲から「これでエリザベスの敵はいなくなった!」との声が上がったことから、この斬首が単なる反逆者の処刑のみならず、イングランドの王位継承権を持つ「脅威」を取り除くための「粛正」という意味合いがあったことも伺える。


 そしてこの旅行はもう一篇の名曲が生まれるきっかけをももたらした。
別のあるとき、一行は嵐の中を汽船に乗り込み、ヘブリディーン諸島に属するスタッファ島に渡り、壁のように切り立った海岸の断崖に荒波が打ち寄せる光景を見、ケルトの伝説の王の名が冠された洞窟も目の当たりにしたのだったが、これらのことから受けたインスピレーションをもとに作曲されたのが、『ヘブリディーン』と呼ばれることもある有名な序曲『フィンガルの洞窟』・作品26である。

スコットランド西岸のスタファ島にあるフィンガルの洞窟の絵
<フィンガルの洞窟の絵>
溶岩の均一な冷却状態によって形成される柱状節理構造が特徴の洞窟である。
 

 イギリスの政財界、楽壇に幅広い人脈を築き、多くの聴衆の喝采を浴び、そしてなによりも大きな創作のヒントまで得、最高の成果を挙げて終わる・・・・
かと思われた、この1829年のメンデルゾーンのイギリス滞在であったが、最後の最後に予期せぬアクシデントが襲う。

スコットランドからロンドンに戻ったのちのある日、メンデルスゾーンを乗せた乗合馬車が街頭で転覆し、彼自身はひざを負傷したのである。

このため帰国はこの年の暮れにまでずれ込み、メンデルスゾーンは最愛の姉ファニーの結婚式に出席することができなかった。

ファニー・メンデルスゾーンの肖像
<フェリックスの姉>
ファニー・メンデルスゾーン
(独:1805-1847)

三流の画家ウィルヘルム・ヘンゼルと結婚した彼女であったが、その生活は幸せであったという。


 悲劇のスコットランド女王メアリ・ステュアートにゆかりの深い史跡にたち、そこでめぐらしたさまざまな空想は即座に一片のメロディとなってメンデルスゾーンの脳裡に鳴り響いた。
彼はすぐさま手持ちの白紙にフリーハンドで五線を引き、伴奏パートや音の区切り方、強弱の指示、楽器の指定まで書き添えた楽譜としてそれを書きとめ、
「今日新しい交響曲の出始めを思いついた」
と家族に手紙で知らせる。
楽譜に記された「エディンバラにて 1829年7月30日夕刻」という日付もまた、「これをいつか大作として仕上げてやるのだ」という決意の表明とも感じられるが、その後このメロディが一篇の交響曲として完成するまでにたどった道程はといえば、それは決して平坦なものとも順調なものともならなかった
 

文: 上柿 泰平(パーカッション)
構成・一部補筆: 岩田 倫和(チェロ)

2006.3.12作成

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