(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

メンデルスゾーン
交響曲第3番「スコットランド」

−曲の概要(その1)−


交響曲第3番「
スコットランド」作曲の沿革>

1829年イギリス訪問時のメンデルスゾーン
<作曲者>
フェリックス・
メンデルスゾーン
(独:1809-1847)

−称賛に満ちた「大英帝国」デビュー−
母国ドイツよりも評価された音楽活動

ベルリンの裕福な銀行家の息子であり、確か有名なユダヤ人哲学者、非凡な作家の孫・・・

(メンデルスゾーン)ヨーロッパで最高のピアニストの一人であるばかりか、まだ若い(当時20歳足らず)にも関わらず、多くの『教授』たちよりもはるかに豊かな音楽経験と知識を持っている

(1828年のロンドンの定期刊行物「ハーモニカン」の記事より)


(スコットランドとメアリ・スチュアート)
−若きフェリックスを魅了した美しき大地と哀しき歴史−
 

ヘブリディーズ諸島のスケッチ(メンデルスゾーン画)

作曲者自身の画によるスコットランド西部・ヘブリディーズ諸島の景色>

フェリックス・メンデルスゾーンは画家としての腕も一流だった。
旅行の際には必ず1冊のスケッチ帳を手にして、こうした風景画を描いていた。

イギリス本土(大ブリテン島)北部の王国スコットランドは、新石器時代からの遺跡群や数多くの美しい古城など、豊かな自然と古くからの歴史に恵まれているが、特に新石器時代に端を発する「石」にまつわる遺跡などの「モノ」は多くある。

その最たるものが、「石(ストーン)」を氷の上で滑らせ得点を競い合うゲーム「カーリング」である。日本でもトリノオリンピックで注目を集めたこの国際競技は、もとはスコットランドに侵入したヴァイキングなどが、その地に数多くあった武器の石器を凍った湖面で滑らせて弾き合った「遊び」に端を発しており、スコットランドの国技ともなっていた。

 

16世紀のスコットランド女王メアリ・ステュアート(1542-87)。
生後わずか一週間で即位し6歳で渡仏、同地での花嫁修業ののちに16歳で結婚するも、その翌年には未亡人となる・・・・
といった波乱とともに幕を開けた彼女の生涯は、断頭台上で非業の死を遂げるまでのその後30年間、2度の再婚とその背後で繰り広げられた密通、イングランド女王エリザベス1世との、イギリスの天下をかけた権力闘争、その身辺でたびたび発生した怪死事件、会う人すべてを魅了する彼女自身の美貌と知性、優雅で豪奢な暮らしぶりなどといった、美しくも退廃的な数多くの花々に彩られている。

1560-1565年頃のメアリ・スチュアートの肖像画
<悲劇のスコットランド女王>
メアリ・スチュアート
(スコットランド:1542-1587)

 

  ここに並んでいる「不倫」「男性遍歴」「女同士の争い」「陰謀」「華麗な日常生活」といったものは、ふと気づけばそっくりそのまま、今日なお女性たちを夢中にさせている「昼メロ」の不可欠な構成要素であったりもするのだが、そうしたことを考えあわせてみても、「元祖・昼メロ女王」とでも呼びたくなるようなメアリの恋と闘いの生涯が、「昼メロ」誕生のはるか以前から,感性豊かな歴代の大芸術家たちを触発し続けてきたということに、思えばそれほどの不思議もないようにも思える。

ベートーヴェンが自らの「第9交響曲」の歌詞として採用した詩『喜びに』の作者フリードリヒ・フォン・シラー(1759-1805)は、メアリの生涯を戯曲『メアリ・ステュアルト』(1800年作)の題材としたし、ドイツの小説家シュテファン・ツヴァイク(1881-1942)もまた、彼女の名前をそのままタイトルとする歴史小説を1935年に著した。
音楽の分野ではイタリアのガエタノ・ドニゼッティのオペラ『マリア・ステュアルダ』が第1に思い浮かぶ。
そして、メアリの生涯や行状を直接に描いてはいないものの、彼女とゆかりの深い事物や場所などから受けた印象を創作の出発点とする作品、というところまで眼を遣るなら、その数はさらに増すことだろう。

フェリックス・メンデルスゾーン
(1809-47)作曲の交響曲第3番イ短調・作品56 『スコットランド』は、その中でもひときわ強い光を放つ一篇である。
 

(栄光のイギリス訪問)
−驚きと称賛に満ちた「大英帝国」デビュー−
 

1829年のメンデルスゾーン
<1829年のロンドン訪問時のメンデルスゾーン>

1829年のイギリス訪問は才気溢れる20歳の彼には最高の門出であった。
1829年3月、20歳のメンデルスゾーンは、周囲の人たちがその成り行きを危ぶむ中準備にのりだした、長年にわたって世の人々から忘れられていたヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750)の大作『マタイ受難曲』(1727年初演)の復活上演を、多くの友人や音楽家の頼もしい協力にも支えられ、大成功裡に成し遂げた。
メンデルスゾーンがこの頃住んでいた街であるベルリンで開かれたこの演奏会で聴衆たちは、自分たちが日ごろ慣れ親しんでいる聖人の物語が、バッハなる音楽家の壮麗な音楽に彩られて、あたかも物語のその場に居合わせているような生々しい迫力を帯びて鳴り響くことに感嘆し、惜しみない拍手と歓声を送った。
曲はその後寄せられた多くの人々の要望に応えて各地で再演されることとなり、メンデルスゾ−ンらはそこから得られた多額の収益を慈善事業に寄付することも出来たのだった。

大仕事を終えたメンデルスゾーンは、両親の勧めにしたがって同年5月にはイギリスへと渡る。

これはすでに高まりつつあった彼の音楽家としての声望を、さらに確固たるものにするための「プロモーション活動」としての性格と、見聞を広め人脈を造る「社会勉強」としてのそれをも兼ね備えた、旅行というよりは短期の留学と呼ぶほうがふさわしいほどの大規模な行動であった。

やがて上陸したロンドンに、メンデルスゾーンは一瞬にして圧倒される。
到着早々に家族に書き送った手紙には
「ロンドンは地球上で最大の複雑極まりない怪物」
「ベルリンで過ごす6ヶ月よりも、ここでの3日間のほうがはるかに多くの変化を目にする」
「港では船が何列にもなって浮かび、大きな港もまるで池のようだ」
「こうしたものを見ていると世界の偉大さに触れているようで心が躍る」
などいった言葉が並んだ。

そしてメンデルスゾーンはその後数日を置かずして、当時外交官としてこの町に駐在していた幼なじみ、カール・クリンゲマンを介して同地の政財界の名士たちの知遇を得、同時にかつて師事していたピアニスト、イグナーツ・モシェレスの手引きによってイギリス楽壇に紹介された。

程なく到着後1ヶ月を待たずしてデビューコンサートのステージに昇り、音楽家として大英帝国の首都に名乗りをあげる。
最初の演奏会では1824年、15歳のときに作曲した「交響曲第1番ハ短調・作品11」を披露し、数日後には同じ舞台にピアニストとして立ち、その直後のコンサートでは1826年、17歳の折に書き上げた自信作、序曲『真夏の夜の夢』・作品21のイギリス初演を敢行した。

20歳の青年音楽家が自作として携えてきた、月の光が照らし出す妖精の乱舞を音で描いたこの佳品は大反響を巻き起こしたようで、当時の英国楽壇で重きを成していたというジュリアス・ベネディクトなる人物は 、
「『序曲・真夏の夜の夢』の初演の成果はまことに衝撃的だった。ベートーヴェンの死によって生じた大きな空白さえ、埋められるかと思われた」
と、後にこのときの印象を回想している。

上陸時の最初の一歩でロンドンに圧倒されたメンデルスゾーンだったが、このときばかりは自身の音楽の力でもってロンドンを圧倒したのだった。

 彼がここまでロンドンの聴衆を夢中にさせ得た理由として、その作品の出来栄えや、彼自身のピアニストとしての腕前の確かさが挙げられることはいうまでもないが、そうしたことと同じくらいに 、指揮者としての彼が舞台上で放射していた華麗な存在感もまた無視できないものがあったことだろう。

 この当時は時あたかも、「指揮者」なる音楽家の存在意義、価値がようやく認められつつあったころである。
それ以前にも「指揮者」はいたが、彼らは丸めた楽譜や弦楽器の弓、ときには杖などといったものを手にオーケストラの前に立ち、粗野な風体で大ざっぱな拍子をとる、いてもいなくてもそれほど違わないような印象しか与えない存在でしかなかった。そして実際に演奏を統率していたのはカペルマイスター
(現在のコンサートマスターのような役割を担う音楽家。奏者の一員として演奏をリードする。ヴァイオリン奏者がこれになることが多かった)やソリストであった。

 そうしたところへ現れた、ドイツから来た青年音楽家はといえば、170センチに迫る細身の長身といったその容貌に加え、細く短いしなやかな棒を手に、音楽が目に見える形となったかのような流麗なしぐさでもってオーケストラから千変万化の音色を引き出してみせる。
そんな光景は聴衆の目には、まるで彼がその場で音楽を紡ぎ出しているようかのように映ったことであろう。
 

室内オーケストラを指揮する少年メンデルスゾーン

<室内オーケストラを指揮する少年メンデルスゾーン−華麗なる出自>

フェリックス・メンデルスゾーンは実家の資産やその出自も一流だった。
父親はベルリン有数の裕福な銀行家、叔母は上流階級のサロンを開くなど、ベートーヴェンやシューベルトなど先達の有名な音楽家たちに比べて、ダントツの好条件下で音楽を始め、哲学や文学など多種多様な知識や教養を身につけることができた。
しかもこの時代はドイツを代表する哲学者ヘーゲルや文豪ゲーテが現役の頃であり、彼らの教えを難なく受けることができたことも、彼の音楽のバックボーンとなった哲学面を大きく育む元となった。

音楽については、この絵にも見られるように、幼い頃から室内オーケストラの指揮をするなど、音楽家としての英才教育のフルコースをふんだんに享受した。
が、その後彼が音楽家として大成するまでには、他の先達と同様の大きな苦難が待ちかまえていた。しかも40歳にも満たないうちに生涯を終えてしまっている。
セレブな出自も結局は「長寿の秘訣」や「王道」にはならなかったのである。

その姿は、メンデルスゾーンと同じく富豪の家に生まれて英才教育をふんだんに受けた後、幾多の苦難の末、F1の世界で「音速の貴公子」と称賛されたものの、不慮の事故で夭折してしまった天才的レーサー、アイルトン・セナ(1960-94)に重なる。

 もっとも、指揮者メンデルスゾーンの功績はそうした視覚面、タレント性の範囲にのみ留まるものでは決してない。
従来はカペルマイスターやソリスト、作曲家の仕事であった、コンサートに向けての日々の練習にも彼は精力的に取り組んだ。
先ほど紹介したベネディクトは、メンデルスゾーンとオーケストラとの、ベートーヴェンの第8交響曲の練習の場に立会ったときに見聞きしたことを文章に書き残しているが、そこには奏者たちを
「紳士諸君」
と呼んで敬意を払い、
「美しい。素敵です」
との言葉を発して彼らの演奏ぶりを尊重しつつも、
「しかしまだ大きく鳴りすぎるところがある・・・・もういちどやってみましょう」
と根気よく繰り返して、自らの理想とする演奏に近づけてゆこうと奮闘するメンデルスゾーンの姿がある。

聴衆のいない舞台裏で、こうした地道な、しかし欠くことのできない準備をこつこつと積み重ね、コンサートのステージ上にあっては奏者を力強くリードする----これは今日の指揮者の仕事と完全に同じだ。
そうした意味ではメンデルスゾーン
(今日的な意味での)「指揮者第1号」とも呼ぶべき存在だったのだ。
彼は名実ともに「新時代の音楽家」としてロンドンの聴衆たち、音楽家たちの前に登場し、一躍脚光を浴びたというわけである。
 

文: 上柿 泰平(パーカッション)
構成・一部補筆: 岩田 倫和(チェロ)

2006.3.7作成

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