(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

交響詩「英雄の生涯」

−曲の概要(その4)−


交響詩「英雄の生涯」の実像と日本初演>

交響詩「英雄の生涯」作曲当時のリヒャルト・シュトラウスの写真
<作曲者>
リヒャルト・シュトラウス
(独:1864-1949)

−「英雄の生涯」とは「リヒャルトの」生涯なのか?−
「英雄とはリヒャルト」の表現は部分的にしか当たっていない

「それは……
実に醜く描かれた『敵対者』とは自分たちのことであり、『英雄』とは私自身のことであると(批評家たちが)思いこんだせいなのです。
しかし、後の方は部分的にしか当たっていません。」

(交響詩「英雄の生涯」のベルリン初演に当たって、リヒャルト・シュトラウスが家族に宛てた手紙の中の一文)


(交響詩「英雄の生涯」に込められたもの)
−作曲者の自叙伝か?それとも−

1943年に爆撃を受け破壊されたミュンヘンのバイエルン国立歌劇場
1943年に爆撃を受け破壊されたミュンヘンのバイエルン国立歌劇場>
前述のバイエルン国立歌劇場は、1943年に爆撃を受けて破壊された。
前述の19世紀末の劇場の絵と比べると、その悲惨さがよく分かる。)
前述の通り、晩年のリヒャルトにとってこの惨劇は大きな悲しみであったが、
同時に、自叙伝的な交響詩「英雄の生涯」を作曲してから40年以上が経過し、
あらためて晩年となった自分の人生を本当に顧みる上で、1933年にナチスに
政権が移って以来、自分の意に反して家族や祖国のために自分がやってきた
ことが何であったのか、深く考えるきっかけとなったのではないだろうか?
 

 「英雄の平和貢献」の章で、あたかも自らの創作歴をふりかえるかのように自作の断片を並べて聴かせる上に、この曲の完成以降、リヒャルトが終生、「交響詩」と銘打った楽曲を作曲しなかったこともあって、『英雄の生涯』はすなわち“リヒャルト・シュトラウスの生涯”、つまり「英雄」とは彼自身なのではないか、とは、しばしば語られるところである。

 リヒャルト本人「なぜ自分自身を題材として交響曲を作ってはいけないのか、私には分かりません。私にとって私自身とは、ナポレオンやアレクサンダー大王と同じぐらい興味ぶかい題材」「ゲーテの場合であれば、すべての文学史家が作者の人格、彼の体験したことと芸術作品との関係を探求するではありませんか。人々は私の作品の新しいところをなぜ見ようとしないのでしょうか。作者その人が明らかに作品に働きかける
(=作者の個人的な体験が創作に反映される)のはベートーヴェンの場合だけだとでも言うつもりでしょうか」などと発言しているし、初演直後から話題となった「英雄の伴侶」のモデルに関してもまた、私が描こうとしたのは私の妻だ」「彼女は複雑な人間で、1分ごとに気分が変わる」と言い、甘えてきたと思えば一転して軽くいなしたりするありさまを連想させるこの章の音楽の構成が、彼女の人となりにヒントを得たものである可能性を匂わせている。

 ちょうどリヒャルトが交響詩を盛んに作曲していた19世紀末から20世紀初頭にかけて、トーマス・マン
(独:1875-1955、「ヴェニスに死す」などの自叙伝的小説の作家で有名)らを代表とするドイツの小説家たちは、自らの体験をほぼ実際のままに織りこんだ小説をさかんに書いていた
新進作曲家リヒャルト・シュトラウスはその時代を熱烈な文学青年としても生きていたのであり、彼が作家たちにならって、自らの表現手段である音楽で私小説を書いてやろう、と志したとしても、大した不自然も不思議もないようにも思える。

 ところが一方では、これらとまるで違う意味にも解釈しうることをも言っているのがリヒャルトなのだ
彼の親友でもあったフランスの著述家ロマン・ロラン
(仏:1866-1944、ベートーヴェン関連の著述などで有名、1916年にノーベル文学賞を受賞)の1899年4月のある日の日記には「リヒャルト・シュトラウスと一緒に彼の交響詩について話す。たとえば『英雄の生涯』を聴くとき、聴衆が小冊子を頼りにするのは無駄なことだと彼は考えている。ただ2つの要素――英雄とその敵たち――を感じとるだけで十分なのだ、と言う」とあるし、自身の指揮のもとに敢行した『英雄の生涯』のベルリン初演の様子を知らせるべく、シュトラウス本人が家族にあてて書き送った手紙には、この新作をさんざんにこきおろす批評家がいることを伝えた上で「それは……実に醜く描かれた『敵対者』とは自分たちのことであり、『英雄』とは私自身のことであると(批評家たちが)思いこんだせいなのです。しかし後の方は部分的にしか当たっていません」と書いている。
 リヒャルト・シュトラウスは、自らの『英雄の生涯』の主人公を自分自身であるとも、そうでないとも言う

最晩年のリヒャルト・シュトラウスの写真
<最晩年のリヒャルト・シュトラウス>
第二次大戦後、リヒャルトはナチスへの協力者として弾劾されるが、
皮肉にも連合国軍として祖国ドイツを爆撃したアメリカの計らいにより
スイスへ移住できた。しかし、交響詩「英雄の生涯」の最終節さながらの
落ち着いた余生を送ることはあえてせず、高齢と体調不良をおして、
人生の最期までヨーロッパ各地への精力的な演奏旅行に出ることとなる。
同時代の作曲家よりも長生きしてしまったがために、二度の世界大戦など、
多くの時代の波乱を経験し、それに翻弄された作曲家リヒャルト・シュトラウスの
最晩年には、どのような思いが去来していたのだろうか?

私の友人のひとりに、一旦は作曲でその身を立てんと志し、実際にある職業作曲家のもとで内弟子的な修業にまで励んだ経験を持つ者がいるのだが、彼は師匠から「自作を詳細に解説すること」「自作を指揮したり、演奏したりすること」の2つを、作曲家のしてはいけないこととして教えられ、「止むを得ず自作を演奏する場合は、つとめて味気なく素っ気なく」ともアドバイスされたという。
書きあげられ、演奏される楽曲は聴く人それぞれが自由に味わい、楽しむべきもので、作曲者があれこれと小賢しく発言し、曲の世界を狭く小さく固めてしまってはならない、ということのようだ。

 

(交響詩「英雄の生涯」の日本初演)
−難しさゆえか?きわめて遅かった日本初演−

 交響詩「英雄の生涯」の日本初演1960(昭和35)年6月13日、東京・日比谷公会堂において、ウィルヘルム・シュヒター(1911-1974)指揮NHK交響楽団によって実現した。
 興味ぶかいのは、シュトラウスの他の交響詩の日本初演――『ドン・ファン』が1927(昭和2)年、『死と変容』と『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』がともに'29(昭4)年、『ツァラトゥストラはこう語った』が'34(昭9)年、『ドン・キホーテ』が'42(昭17)年――と較べ、この曲のそれだけが際立って遅いことである。
「英雄の伴侶」を象徴するソロ(独奏)ヴァイオリンはこの曲の華であるが、最高クラスの演奏技術の持ち主でなければそれを弾きこなすことができない、ということと、あるいは関係があるのだろうか。

初演を指揮したシュヒターがN響の常任指揮者であった期間は'59年から'62年(昭34-37年)までの3年間であったが、彼はこの間にこの楽団を非常に厳しく鍛え上げ、その演奏水準を飛躍的に向上させている。

 

文: 上柿 泰平(パーカッション)
構成・一部補筆: 岩田 倫和(チェロ)

参考図書:
 R.シュトラウス ヴァルター・デピッシュ著 村井翔訳 音楽之友社
 R.シュトラウス クロード・ロスタン著 杉本秀太郎訳 音楽之友社
 R.シュトラウス 安益泰・八木浩著 音楽之友社
 作曲家別名曲解説ライブラリー第9巻 R.シュトラウス 音楽之友社
 シュトラウスとロマン・ロラン シュトラウスの思い出(ロマン・ロラン全集第40巻所収)
 ロマン・ロラン著 片山昇・片山寿昭訳 みすず書房
 ニューグローブ世界音楽大事典第8巻 柴田南雄・遠山一行総監修 講談社
 第三帝国のR.シュトラウス―音楽家の喜劇的闘争 山田由美子著 世界思想社
 世界の歴史と文化・ドイツ 池内紀監修 新潮社

2005.8.21作成

R・シュトラウス・交響詩「英雄の生涯」(その3:管弦楽と楽器編成編)のページに戻ります。 演奏会記録のページに戻ります。