(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

交響詩「英雄の生涯」

−曲の概要(その1)−


交響詩「英雄の生涯」作曲の沿革>

交響詩「英雄の生涯」作曲当時のリヒャルト・シュトラウスの写真
<作曲者>
リヒャルト・シュトラウス
(独:1864-1949)

−「交響詩」とは?−
1854年に生まれた当時の「未来音楽」

管弦楽による標題音楽(文学・芸術・演劇作品などの題材に結びついた音楽)の一種で、詩的あるいは絵画的などの内容をあらわそうとするもの。
ドイツの作曲家フランツ・リスト
(1811-1886)が序曲として計画した「タッソー」を1854年に「交響詩」と呼んだのがこの語の使用の最初である。

(新音楽辞典(音楽之友社)より)


(リヒャルト・シュトラウスの生い立ちと青年期)
−音楽家の息子ゆえの英才教育と「交響詩」との出会い−

19世紀末当時のミュンヘンのバイエルン国立歌劇場
リヒャルト・シュトラウスが愛した故郷ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場>
上の写真は19世紀末当時のもの。(1943年第二次大戦の爆撃により破壊
ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場と並び称されるこの立派な歌劇場は
1818年に建造されて以来、ミュンヘン市民の誇りであり、
リヒャルト・シュトラウスも自分の音楽家の原点としてこよなく愛してきた。
それだけに、第二次大戦の連合国軍の爆撃で無惨に破壊されたと知ったときには
彼はとてつもない悲しみと喪失感に見舞われたとのことだった。
(この劇場が再建されたのは、彼の死後15年も経った1964年のことだった。)

 リヒャルト・ゲオルク・シュトラウスは、名手として広くその名を知られていたホルン奏者フランツ・ヨゼフ(1822-1905)を父、ビール製造業を家業とするプショル家から嫁いできたヨゼフィーネ(1837-1910)を母として1864年6月11日、ドイツ南部の大都市ミュンヘンで生まれた
 父が高名な音楽家であるという家庭環境のゆえか、リヒャルトもまたごく幼い時期から早熟な楽才を発揮、6歳ごろからすでに試みていた作曲は、11歳ごろから本格的なレッスンを受けはじめたことによって飛躍的な進歩を遂げ、'76年には12歳の処女作『祝典行進曲』として最初の結実をみた。その一方で5歳からピアノ、8歳からはヴァイオリンを習いはじめ、18歳になるや父親が主宰し指導にもあたっていたアマチュアオーケストラ「ヴィルデ・グングル」に参加し、合奏を実地体験した。
 そしてこうした音楽教育と並行して、'74年から'82年まで「ルードヴィヒス・ギムナジウム」なる公立学校に通い、とりわけ語学、古典文学、歴史ですぐれた成績をおさめたのち、'82年から翌年にかけてはミュンヘン大学で哲学、美学、美術史の講義を聴講、この時期には特に哲学から多くを学んだのだった。
このことが、後の文学作品や哲学を中心とした「交響詩」作曲に大きな影響を与えた。
 

 '81年に作曲した『十三管楽器のためのセレナード』が、大指揮者ハンス・フォン・ビューロー(1830-94)に認められたことにより、まずは指揮者として楽壇へのデビューを果たし、'85年にはマイニンゲン宮廷管弦楽団という団体の副指揮者に就任したのだったが、その時期にこの楽団のヴァイオリン奏者であるアレクサンダー・リッターなる人物と知り合い、彼を通じてはじめてリヒャルト・ワーグナー(1813-83)の音楽にふれたことで、シュトラウスのこれ以降の創作は大きく変わることとなる。

ワーグナーは自作のオペラ
――彼自身はそれをムジクドラマ(楽劇)と称していた――の曲中で、特定の人物、もの、事件、心情などといったものを表わすテーマ「示導動機(ライト・モチーフ)」を、各場面の状況に応じて適宜組み合わせたり、変化させたりして、いわば絵を描くように、文章を書くように音楽を構築してゆく独自の作曲手法を実践して、同時代のみならず後の時代の作曲家たちにも甚大な影響を及ぼした巨匠であった。
そしてリッターの妻はその巨匠の姪である。

幼少期のリヒャルトが最初に接した音楽家である父フランツは、
(彼自身がワーグナーも認める名ホルン奏者であったにもかかわらず)そうしたワーグナーの音楽を極端に嫌い、息子への悪影響を案じてかそれを彼の耳に入れぬようにしていたのだが、その結果シュトラウスの感受性の裡に生じた大きな空白が、皮肉にも彼をワーグナーの音楽に心酔させる“元凶”となったか。

 そしてリヒャルトはワーグナーの楽曲を知ったことによって、その盟友フランツ・リスト(1811-86)の音楽に対しても目をひらかれることとなった。

リストもまたワーグナーばりの「示導動機」を駆使する作曲技法を我がものとしていたが、彼はそれを用いてオペラを作ることはせず、かわりに歌詞のないオーケストラ (純管弦楽)の音楽において、音色や曲の構成にさまざまな工夫をこらし、文芸作品のストーリーや歴史的事件などを描写する「交響詩」なる音楽形式を創案、自ら13曲を作曲してその第一人者となっていた。 

ハンス・フォン・ビューローの肖像画
ハンス・フォン・ビューロー
(独:1830-1894)
「近代指揮法」の父と称される大指揮者

リヒャルト・ワーグナー(ヴァーグナー)の肖像画
リヒャルト・ワーグナー
(独:1813-1883)
音楽と演劇の一体感を強めた「楽劇」の創始者

最晩年のフランツ・リストの写真
フランツ・リスト
(ハンガリー:1811-1886)
当代随一の名ピアニストにして「交響詩」の創始者

この新しいジャンルはリスト以後の世代の多くの作曲家たちを強く触発し、チェコのスメタナ(1824-84)ドヴォルジャーク(1841-1904)、ベルギーのフランク(1822-90)、フィンランドのシベリウス(1865-1957)、イギリスのバックス(1883-1953)などといった面々がそのあとにつづくこととなる。
 

(交響詩作曲家としてのリヒャルト・シュトラウス)
−夢中になって「交響詩」を作曲し続けた青年期−

<「交響詩」の題材となった作品の作者たち>
 

ニコラス・レーナウの肖像画
ニコラス・レーナウ
(独:1802-1850)
 オーストリアを中心に活躍した
詩人で、主人公の女性遍歴を
綴った詩「ドン・ファン」が特に
有名。彼は理想の地を求めて
アメリカにも渡った経験があるが
そこで見た拝金主義の跋扈に
嫌気がさして1年で戻ったとか。
フリードリッヒ・ニーチェの写真
フリードリッヒ・ニーチェ
(独:
1844-1900)
世界に影響を与えた大哲学者で、
人間の精神的宿命を超えるための
「超人」や、東洋の「輪廻転生」に
似て非なる思想の「永劫回帰」は
「ツァラトゥストラはこう語った」
打ち出された有名な思想である。
ミケル・デ・セルバンテスの肖像画
ミケル・デ・セルバンデス
(スペイン:
1547-1616)
スペインの下級貴族の出身で、
海軍兵や銀行員を経た後に、
小説「ドン・キホーテ」などを記す。
妄想に駆られた騎士物語で
知られる「ドン・キホーテ」だが、
主人公の成長を描いた近代小説
の前駆としても有名である。

かねてから文学や歴史に造詣が深く、この「交響詩」に大いに興味を持ったリヒャルトもまた、この曲種に自らの作品を連ねたい、と、ごく自然に志したようで あった。
まずは、86年に、自らのイタリア旅行の印象をヒントに「交響的幻想曲『イタリアから』」というオーケストラ曲を作りあげたのち、その翌年の'87年から'90年にかけて作曲した、ドイツの詩人レーナウ
(1802-50)の詩にインスピレーションを得た『ドン・ファン』('87-88)、病床にある人の苦悩や夢想、臨終の情景を音で描いた『死と変容』('88-89)、イギリスの劇作家シェイクスピア(1564-1616)の戯曲に基づいた、オーケストラによる言葉なき劇とも呼ぶべき『マクベス』('89-90)3篇を「交響詩」と銘打って発表、その後も――5年の空白をはさみはしたものの――ドイツの民間伝承に取材した『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』('94-95)、哲学者ニーチェ(1844-1900)の著書に促された思索をその着想の出発点とする『ツァラトゥストラはこう語った』('95-96)、スペインの小説家セルバンテス(1547-1616)の作品に登場する老騎士とその従者をチェロとヴィオラのソロで表現するという、音楽劇風な特異な構成を持つ『ドン・キホーテ』('97)といった調子でたてつづけに書きあげ、リスト以来の交響詩作家の列に加わっていった。

20世紀初頭のリヒャルト・シュトラウスとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
<20世紀初頭のリヒャルト・シュトラウスとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団>
20世紀初頭のドイツの名門オーケストラ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と
当時作曲家としても指揮者としても活躍していたリヒャルト・シュトラウスの集合写真。
写真ほぼ中央の指揮台の横で立って写っているのがリヒャルト・シュトラウスである。

 そのころのリヒャルトは、当時すでに特別なオーケストラと目されていた名門ベルリン・フィルの指揮台に立ったり、幾度もの栄転の末にベルリン帝立オペラ劇場の指揮者に就任したりする一方で、'94年には歌手パウリーネ・デ・アーナ(1862-1950)との結婚を果たし'97年には息子フランツも誕生、といった具合に、指揮者、私人としては輝かしい名声とあたたかな幸福に包まれた充実した日々を過ごしていたが、作曲家としての自らの創作には、実はある種のゆきづまりを感ぜざるを得ない状況に陥っていたのだった。
 

(リヒャルト・シュトラウスと「交響詩」の別れ)
−「交響詩」の限界を感じ、オペラ作曲家へ−

1904年に撮影されたリヒャルト・シュトラウス一家の写真
<1904年のリヒャルト・シュトラウス一家の写真>
(左から、息子のフランツ、妻のパウリーネ、リヒャルト・シュトラス)
1904年はちょうどリヒャルト・シュトラウスがオペラ作曲家に転向した頃であった。
この約30年後、彼は一家を守るため、独裁政権となったドイツ・ナチスの意向に合わせ、
(彼の本意にない)作曲・指揮活動を展開せざるを得ない状況となる。
その中で1940年に同盟国・日本のため「皇紀2600年奉祝楽曲」が作曲されている。

 物語や情景の描写をその一大眼目とする「交響詩」という音楽は、歌詞をともなわず、オーケストラの演奏だけで展開されてゆくものであるために、どんなに魅力的なストーリーであっても、その雰囲気を漠然と匂わせることしかなし得ない、という「交響詩の限界」が、越え難い高い壁としてシュトラウスの前に立ちはだかっていたのだった。

「この旋律は登場人物○○を表わします」「こちらの和音は彼が携えている聖なる剣××です」などといった具合に、聴き手といくつもの「お約束」を交わさねばならぬにも関わらず、どんな情景も最終的には聴き手各人の身勝手な空想に委ねられてしまう――。

教養人として文学や歴史に通暁し、作曲家としてはオーケストラの扱いにたけ、千変万化の音色を引き出すことができたリヒャルトにとって、これほどのもどかしい不条理はなかったろう。
 

大批評家ハンスリック(1825-1904)は、リヒャルトの交響詩『死と変容』のウィーン初演に接し 、

「この具体的描写に欠けているのは、最後の具体的な一歩、明かりの暗いこの病室を、そこに置かれた雑多なものもろとも、実際の舞台の上に持ち出すことである」

と評したが、これはリヒャルトがその当時に直面していた課題と、作曲家としてのよりよい将来を望んだ場合に、彼が選びとるべき進路とを簡潔に言いあてた言葉であろう。

エードゥアルト・ハンスリックの写真
エードゥアルト・ハンスリック
(独:
1825-1904)
ブラームスの信奉者としても
有名な当時の大批評家

 1897年から翌年にかけて作曲し、'99年3月3日に自らの指揮のもと初演を果たした交響詩『英雄の生涯』作品40以後、リヒャルトは終生、「交響詩」と銘打った楽曲を発表することはなかった。

「交響詩」という形式が抱えていた限界の何たるかを痛感した
彼は、こののち、音楽・言葉・演技が緊密に手を携え、複雑なストーリーの妙、登場人物の微妙な心のひだを描きあげる音楽様式「オペラ (歌劇)」に、自らの捜索の主軸を移してゆく
 

文: 上柿 泰平(パーカッション)
構成・一部補筆: 岩田 倫和(チェロ)

2005.8.14作成

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