
<ドビュッシーと彼が溺愛した一人娘のエマ(シューシュー)>
ドビュッシーは生涯に1回の同棲と2回の結婚を経験しており、同棲解消と離婚時に
それぞれの相手が自殺を図り、また彼の2人目の妻が他人の妻であった最中に
ドビュッシーの子を産む(その子が上写真の娘エマ)など、彼の婚姻関係には
自殺や不倫など何かとスキャンダラスなトラブルがつきものであった。
しかしこうした悲劇的な出来事は彼の作品には全く反映されず、むしろ娘との
幸せな日々を反映した、「お子様向けの」愛らしい小品が多く見られる。
ちなみに娘のあだ名の「シューシュー」とは、日本語で「キャベツちゃん」という
意味になり、洋菓子の「シュークリーム」の「シュー」と同意である。
このあだ名をしても、ドビュッシーがいかに娘を溺愛していたかが伺える。
クロード・アシル・ドビュッシーは、1862年8月22日にパリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レイで生まれた生粋の「パリジャン」です。
(この土地は、小組曲中の舞曲とも縁の深い「太陽王」ルイ14世の出生地としても有名です。)
彼は生まれつき額が妙に突き出た特徴的な顔立ちをもっていたため、「水頭腫にかかったキリスト」などと、顔立ちや頭の形について揶揄されることが多々ありましたが、ピアノの腕前は幼いときから超一級で、11歳でパリ音楽院(フランス音楽教育界の頂点)への入学が許されるほどの「天才ピアノ少年」でした。
また、ピアノだけでなく、パリ音楽院の作曲科教授エルネスト・ギローから教わった作曲についても、1884年に(作曲家の登竜門でその頂点にあった)ローマ大賞主席を受賞するなど、たぐいまれなる才能を発揮していました。
さらに、生粋の「パリジャン」らしく、ピアノの腕だけでなく、食べ物やファッションについても、なるべく高級かつハイセンスなものを食べたり身につけたりするなど、幼いときから「超一級」のものをもっていました。
そんな彼は、パリ音楽院在学中から、神経質であまり人としゃべらず、「超一級のプライド」からか、皮肉屋で尊大な態度を取ることが多かったため、友人に恵まれるようなことはなかったそうです。
また、(高圧的態度を取らず温厚で知られていた)音楽院のオルガン科教授のセザール・フランク(詳しくはセザール・フランクの解説ページで)の指導に従おうとせず※1、自分の演奏スタイルを貫き通したり、ほかの作曲家の作品を糞味噌にけなしたりする※2など、青年の頃から音楽や人生に関して、他人に左右されない「オレ流」を貫くようになっていました。
※1 セザール・フランクの指導と作品は別?
ドビュッシーはフランクの指導には従いませんでしたが、フランクの作品に対しては、この交響曲ニ短調の解説ページに見られるように、彼の嫌うベートーヴェン張りの形式音楽(交響曲)だったにも関わらず、惜しみない称賛を送っています。
一方で、形式音楽を重んじるフランクの弟子達とは対立関係となりますが、その因縁はドビュッシーが師フランクに対して不服従であった時から始まっていたのでしょう。
※1 ドビュッシーの他の作曲家への印象・言行録
ブラームス:
批判する価値も無いと看做したのか、完全無視。
チャイコフスキー:
18歳の頃の習作をけなされた記憶からか毛嫌いしていた。
ベートーヴェン:
その作品の堅苦しさに退屈していた。
マーラー:
「交響曲第8番」の初演を聴いたが、途中で椅子を蹴って帰った。
グノー(同時代のフランスのオペラ作曲家。オペラ「ファウスト」が有名):
「ファウストは彼の手で虐殺された」と批判。
その「オレ流」が最も顕著に表れるのが、彼が指導的立場を取った作曲スタイルである「印象派」音楽の作風です。
上記の書簡から伺えるように、彼はセザール・フランクの登場以来復興しつつあった、フランスの伝統的な形式音楽(詳しくはフランク・交響曲ニ短調の解説ページで)に対して「ノン!」(拒否の意)を突きつけ、形式にこだわらない音楽の「色彩」や「律動ある時間の流れ」を重視した・・・ちょうどルノアールなどの自己のイメージに基づく色彩豊かな印象派の「絵画」を「音楽」で表現するような、「印象派」スタイルを確立しようとしたのです。
それは、後に彼の唯一のオペラ「ペレアスとメリザンド」(1902年)(詳しくはこの「ペレアスとメリザンド」解説ページで)や、彼の最大級の傑作となる交響詩「海」(1905年)となって結実することとなります。
(この「海」の作曲には、1867年のパリ万博で出品されていた葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景
神奈川沖浪裏」の印象が大きく関わっていたのは有名な話です。)
そんな「オレ流」を貫いたドビュッシーではありますが、1918年3月25日、第一次世界大戦でパリがドイツ軍の砲撃を受ける最中で、直腸癌が元でこの世を去りました。
また、その翌年の1919年に、彼が溺愛した娘エマ(シューシュー)も父の後を追うようにこの世を去り、ドビュッシーの血筋は絶えました。
彼の作品は他人がおいそれと真似のできない、まさに一代限りの「オレ流」の「印象派」音楽だったのです。