(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

フランク・交響曲ニ短調

−曲の概要(その4)−


交響曲ニ短調 評判とその後>

−初演当時の酷評、そして作品と作曲家のその後の運命−

青年クロード・ドビュッシーの写真
クロード・ドビュッシー
(仏:1862-1918)

−ドビュッシーの交響曲ニ短調への讃辞−
青年クロード・ドビュッシー、「親父」の交響曲を称賛する。

フランク親父の交響曲はすごいですよ。
もう少し角張ってなければいいのだけど。
でもアイデアはすてきです!
僕は以前、五重奏曲に感動したのですが、それよりも好きです。
フランク親父は中心人物ですよ。


(フランス印象派音楽の作曲家ドビュッシーが自分の師エルネスト・ギローに述べた感想)


<初演当時の交響曲ニ短調の評判>
−ほとんどの”同僚”に理解されなかった交響曲−

フランス文化圏の音楽界が長らく待ち望んできた、「形式」という伝統の器に作曲家の個性という名の花を盛ったその本来あるべき姿を備えた交響曲――。
フランク「交響曲ニ短調」が、長く続いたフランスでの交響曲の「大空位時代」を終わらせたかけがえのない名作であることは、今日の我々にしてみれば疑う余地のないことであるが、この曲が1889年2月17日に、ミシェル・ガルサン指揮のパリ音楽院管弦楽団によって初演された直後に得た評判はというと、それは芳しいものではなかったのだ。
 

シャルル・グノーの写真
シャルル・グノー
(仏:1818-1893)

天才少年からオペラの売れっ子作曲家、そしてパリ音楽院の教授に、といった具合に、19世紀フランス楽壇での典型的な出世コースを歩んだシャルル・グノーはこの曲を聴き、
「ドグマ
(註)の域にまで達した不能性の断言」
との感想を述べた
、と伝えられている。

(ビュアンゾ著・田辺訳「フランク」191ページに所載)

(註)
ドグマ(dogma/英語)=現在では「独断」の意味で用いられるが、元来は教会が権威を以て定め、絶対に逆らえないというニュアンスを含んだ「教義」の意。

この非常に難解な言いまわしを易しく言い換えるならば、
「自分には全くなにも出来ない、ということを、神の教えのように堅く信じることが、この音楽の作曲者の信条なのだろう」
といった感じであろうか。

無能な人物が作った、何の工夫もない、とるに足らない作品――
フランクの新作はグノーにとって、その程度のものとしか感じられなかったようである。

そしてカミーユ・ベレーグなる人物も、1889年版の「音楽年報」に、
「『交響曲ニ短調』――ああ、なんとまた荒涼とした、陰気な音楽なんだろう。雅趣も、魅力も、愛嬌もない」
との書き出しではじまる、この交響曲についての冷ややかな評論文を寄稿している。
(ビュアンゾ著・田辺訳「フランク」188ページに所載)

その文中で彼は、第1楽章の最初に登場する「第1の循環動機」を、
「音楽院で生徒たちに展開させるテーマ以上のなにものでもない」
とし、「第2の循環動機」に対しては、
「いくらか動きもあり、勢いもみられる」
としながらも
「作曲者はそれを少しも有益に用いなかった」

と、結局は冷笑を浴びせかけている。
もっともそんなベレーグも、第2楽章の例の古雅な旋律に関しては、
「砂漠のオアシス……一瞬さわやかな気持ちにさそわれる」
と誉めるのだが、第3楽章に話が及んだとたん、
「わたしには悲痛なものに思えてならない」
と否定的な論調に戻る。
その後は批判の矛先を、この曲の構成の大原則である「循環形式」に向け、
「先行する各部分のモティーフを、彼は一挙に激しく引き戻してくる。こういう方式が今日では大変受けているのだが、あまり濫用してはいけないだろう」
とも主張する。

いっぽう、こうした有識者以外の一般の聴衆たちは、この新しい交響曲がイングリッシュホルンを大活躍させていることに大いにとまどった

いくつかの「主題」をさまざまに変化、発展させ終結に導く、というのが「交響曲」という音楽形式の主旨であり、それはいわば、数式が演算の過程を経て解へと導かれてゆくなりゆきにも似た数学的な行為でもあるのだが、具体的な何かを表しているという訳ではない、こうした抽象的な音楽の演奏に用いるには、イングリッシュホルンの音色はあまりにも個性的に過ぎる、というのが当時の常識であった。
“田園風景”“羊飼いの吹く笛”、あるいは“中世の吟遊詩人の歌声”
(第2楽章のイメージ)などといった、あまりにも具体的なことがらを強烈に連想させる音を鳴らしたのでは、交響曲もオペラやバレエのような“物語の音楽”に変わってしまうではないか、とこのころの人々は考えていたのだ。

もっとも天才の慧眼にかかれば、そうした古い慣習はいとも易々と打ち破られてしまうのが常だ。
 

アントニン・ドヴォルジャークの写真
アントニン・ドヴォルジャーク
(チェコ:1841-1904)

イングリッシュホルンが宿す魅力や可能性を鋭く見抜いていたアントニン・ドヴォルジャークが、この個性的な楽器のための長大なソロを、名作「交響曲第9番『新世界から』」に書きこむのは、フランクの交響曲の初演の5年後のことである。
(第2楽章の主旋律となる歌謡風のソロで、その素朴で美しい旋律は、後に弟子の手により、「遠き山に日は落ちて・・・」の歌詞で有名な歌「家路」となった。)

そののち、交響曲にイングリッシュホルンを用いるのはごく当たり前のこととなり、多くの作曲家がこの楽器を自作に登場させるようになる。
フランクがしるした第一歩は、ドヴォルジャークによって定石に押しあげられたのだった。

 

フランクへの喝采と残酷な運命>
−遅すぎた称賛と周囲に惜しまれた死−

1890年に撮影されたフランク、イザイらの写真
<1890年に撮影された最晩年のフランクの写真>
この写真の中央で穏やかな表情で写っているフランクであったが、
その年には交通事故が元であっけない最期を迎えることとなる。
フランクの右後には、彼と同じベルギー、リエージュ出身で親友の
有名なヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイ(1858-1931)も写っている。


フランクが新しい弦楽四重奏曲を初演し、それまで体験したこともないほどの熱烈な喝采を浴びた
のは、「交響曲ニ短調」の初演の翌1890年の4月のことであったが、その翌月の5月には一転して悪運が彼を襲った

作曲者として助言を与えるべく、自分の作品を練習中であったあるオーケストラの練習場に向かっていたフランクを乗せた辻馬車が、大型の乗合馬車と接触するという事故を起こしたのだ。
このときフランクは右の脇腹を強く打ち、一瞬気を失ったが、見た目にはその直後に元気をとり戻したため、周囲の人々は胸を撫で下ろしていた。

ところがこの事件は眼に見えぬ形でフランクの健康を蝕んでいたと見え、同じ年の10月のおわりにふとしたことからひいた風邪は、あれよあれよという間に腹膜炎
(著書によっては胸膜炎)を併発させ、予断を許さぬ状況にまで彼を追いつめてしまう。

68歳のセザール・オーギュスト・フランクが天界へと旅立ったのは、1890年11月8日のことであった。
彼の才能にふさわしい地位、名誉、報酬を、当時の楽壇が彼に与えていた年月の、何と短いことであったか――。

狂詩曲「スペイン」などの作曲でフランス音楽の新しい可能性を示した後進の作曲家の一人、エマニュエル・シャブリエは、フランクの埋葬式で次のような、彼に関してまこと的を射た感動的な弔辞を読んだ
 

エマニュエル・シャブリエの写真
エマニュエル・シャブリエ
(仏:1844-1894)

『さようなら、先生。ありがとうございました。
先生は本当によくなさいました。
謹んで申しあげますが、先生は今世紀最大の芸術家のひとり、比類ない教師であられました。
先生のすばらしい教えのおかげで、行動力と信念とまじめな意図を持ち、長期にわたる戦闘に勝ち抜くために武装した一世代の音楽家が生まれました。
そして、最後にこう申しあげます。
先生は正しく、高潔な、まことに人間的で公平無私なお人で、その忠告はいつも正しく、そのお言葉はいつも親切でありました。
さようなら。』


「さようなら」の言葉で結ばれるこの弔辞は、埋葬されるフランク自身だけでなく、長年フランス音楽界を占めていたオペラ中心の軽薄な旧時代への別れでもあった。
そして、同時にフランクの精神を受け継いだ後進の作曲家たちの活躍と、彼らの宿願であったフランス交響楽の復活という新時代への予言でもあったのだ。
 


<その後のフランス音楽界>
−弟子たちに引き継がれたフランス交響楽の復活−
 

ルノアールのデザインによるフランクの記念碑の写真

オーギュスト・ルノアールの写真
<記念碑のデザイン担当者>
オーギュスト・ルノアール(ルノワール)
(仏:1841-1919)
 

<1904年に完成したフランクの記念碑>
写真の記念碑はフランクの死から14年も経った後に、フランクが終生オルガニストを勤めていた聖クロチルド教会のそばの広場に作られた。
数々の印象派の名画で有名なルノアール(ルノワール)のデザインによるこの記念碑は、生前不当に評価されていたフランクの存在が死後になってやっと正当なものとなったことを現在に至るまで象徴している。


フランクが「交響曲ニ短調」を生みだしたことによってようやく幕を開いた、フランス流交響曲の歴史
――。
不滅の意義を有したフランクのこの仕事は、すでに彼の存命中から、その弟子たちによって継承され、発展の途に就いていたのだった。
 

ポール・デュカスの写真
ポール・デュカス
(仏:1865-1935)

アルベール・ルーセルの写真
アルベール・ルーセル
(仏:1869-1937)

フランクの死の年、1890年にはエルネスト・ショーソンが、1897年にはポール・デュカス(左上写真)が、1903年にはヴァンサン・ダンディが、それぞれ新作の交響曲を初演している。
(デュカスは当団第39回定期演奏会の演奏曲、交響的スケルツォ「魔法使いの弟子」の作曲者である。)

“20世紀音楽”の時代が到来し、直接にフランクを識らない作曲家たちが、音楽界をリードするようになっても、そうした流れは途絶えることがなかった

アルベール・ルーセル
(左下写真)4曲アルテュール・オネゲル(1892〜1955)5曲ダリュス・ミヨー(1892〜1974)にいたっては12曲交響曲の創作をなしとげ、かつてフランスでは「学生の宿題」とまで扱われていた“交響曲を作曲する”という仕事はついに、一流の芸術家がとりくむ重要な創作行動となった

そして現代音楽の作曲家たちにも、その傾向はしっかりと受けつがれた
アンドレ・ジョリヴェ
(1905〜74)3曲ヘンリ・デュティーユ(1916〜)2曲の交響曲を発表しているが、なかでも特筆すべきはオリヴィエ・メシアン(1908〜1992)によって1948年に書きあげられた超大作『トゥランガリーラ交響曲』であろう。インドの伝統音楽と、ヨーロッパの最新の現代音楽が一篇の楽曲として融合したこの曲こそは、東洋と西洋、過去と現代が“響き交わる”空前の交響曲ではないか。


オペラのヒット作を書いた作曲家は金も、名誉も、地位までも手にすることができた一方で、真に芸術的な音楽の創作を志す作曲家が、世の中の片隅で清貧に甘んじていた、19世紀のフランス楽壇
 
その頃のフランスのスター作曲家の1人にジャコモ・マイヤベーア(右の肖像画)がいた。
彼のヒット作のひとつ『ユグノー教徒』などは、パリ・オペラ座だけで1126回も上演されている。

この作品同様に『悪魔のロベール』なるオペラもまた、大いに人気をはくした。フランクの死の3年後の1893年、その上演回数は実に751回にも達した
そしてその『悪魔のロベール』の752回目の上演が実現したのは、前の回の75年後、1968年のフィレンツェ音楽祭でのことである。
かつて一世を風靡した、破格の規模を持つ作品の、めったにない上演の機会として、多くの人々の興味を惹いたことだろう。

ジャコモ・マイヤベーアの肖像画
ジャコモ・マイヤベーア
(仏:1791-1864)
 

 

文: 上柿 泰平(パーカッション)
構成・一部補筆: 岩田 倫和(チェロ)

参考図書:
    「フランク」 エマニュエル・ビュアンゾ著 田辺保訳 音楽之友社
    「フランス音楽史」 ノルベール・デュフルク著 遠山一行ほか訳 白水社
    「名曲解説全集第2巻・交響曲中」 音楽之友社
    「ラルース世界音楽作品・人名事典」 海老沢敏ほか編 福武書店
    「クロニック世界全史」 樺山紘一、木村靖二ほか編 講談社
    「クラシック音楽史大系」 パンコンサーツ
    「ケルト−生きている神話」 フランク・ディレイニー著 森野聡子訳 創元社
    フランク・交響曲ニ短調 総譜 音楽之友社、全音楽譜出版社

2005.4.4作成
(2005.4.5一部改訂)

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