(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

チャイコフスキー・イタリア奇想曲

−曲の概要(その1)−


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(MIDI形式: 福澤ジャストミート諭吉様(データ作成者)のご厚意で転載)

 




イタリア奇想曲作曲当時(1880年頃)のチャイコフスキーの写真
<作曲者>
P.I.チャイコフスキー
(露:1840-1893)

イタリア奇想曲 作曲の沿革>


−チャイコフスキーの言葉 その1−
「私はグリンカのスペインもの(注)の手法で何か書いてみたいのです。
(チャイコフスキーがローマからフォン・メック夫人に宛てた1880年1月16日付の手紙より)

−チャイコフスキーの言葉 その2−
「民謡の素材を生かした『イタリア奇想曲』のスケッチが完成したところです。民謡集から選んだり、また、路上で耳にした各々の旋律は素晴らしいもので、良い作品ができるでしょう。」
同1880年2月1日付の手紙より

(チャイコフスキーとその音楽の背景)

ヴォトキンスクにあったチャイコフスキーの生家
(ヴォトキンスクにあったチャイコフスキーの生家)

「白鳥の湖」「眠りの森の美女」「胡桃割り人形」の名作バレエ組曲や、「悲愴」などの6曲の大交響曲、「アンダンテ・カンタービレ」で知られる弦楽四重奏曲など、名曲には事欠かないロシアを代表する大作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは、1840年5月7日にロシアの(首都モスクワの東方にある)ウラル地方のヴォトキンスクで鉱山技師の息子として生まれました

少年の頃から多感で音楽の才能を示し、青年期には音楽家への志を抱きながらも、生活のためにペテルブルグの法律学校を卒業して、帝政ロシア当時の法務省に勤めるなど(本人にとっては)苦難の官僚生活を送ります。
しかし、その後父親の温かい支援もあって、ようやくペテルブルグ音楽院に入学し、ようやく憧れていた音楽家としての道を歩み始めます。

ナジェジダ・フィラレトヴナ・フォン・メックの写真(背後に写っているのは彼女の娘)
フォン・メック夫人
(1831-1894)

また、1877年にはロシアの鉄道王だった大富豪カルル・フョードロヴィチ・フォン・メックの未亡人ナジェジダ・フィラレトヴナ・フォン・メック(フォン・メック夫人)から破格の年金を受け取るに至り、経済的には苦労しなくなりました。

ただ、彼自身は経済的には苦労はしなかったものの、生来多感で傷つきやすく、躁うつの傾向が多々見られた上に、
(当時宗教上の理由で絶対に隠さなくてはならなかった)同性愛癖や、生涯悩まされ続けた1877年の不幸な結婚など、悩み多き人生を送ったのも事実です。

その中でも特に同性愛癖は、もしバレたら「神の教えに背く」として、社会的地位を全て剥奪された上で極東の僻地シベリアへ流刑というとんでもない刑罰がかかってくるだけに、これを隠すのにかなり神経を削ったそうです。(が、なぜか実際にはモスクワのほとんどの人が知ってて知らないふりをしていたという話もあります。)
そして、1893年にその同性愛癖が元で訴訟が起こりそうになり、法律学校時代の仲間内での名誉裁判で秘密裏に死ぬよう宣告され、実際に砒素(伝染病のコレラに似た中毒症状を示す毒物)を飲んで自殺したとの説もあります。
(ちなみに、彼の公称の死因は、飲んだ生水から感染したコレラによる「病死」ですが、チャイコフスキー自身の死後の名誉のため、ロシア当局がこの公称の死因を覆すことはないでしょう。)


それら彼の苦悩の「断片」は、生涯最後の作品となった交響曲第6番「悲愴」をはじめとして、繊細で甘美
(または陰うつ)な旋律と(それを払拭せんとする)激しくド派手な展開の極端な対比や、pppppp (当時は最弱音でもppp までがほとんど)からffff (当時は最強音でもfff までがほとんど)までの極端なダイナミクス(音量差)など、彼の作風に色濃く出ています

 

(イタリア奇想曲作曲当時のチャイコフスキー)

それまで新聞社での論評執筆や母校の音楽院の教員で何とか生計を立てていたチャイコフスキーは、1877年に熱烈な音楽ファンで大資産家のフォン・メック夫人から年6,000ルーブルもの破格の年金を受け取ることとなり、いよいよ作曲に専念できる万全の環境が整いました。

が、同年彼は自分の教え子であったアントニーナ・イヴァーノヴナ・ミリューコヴァという当時28歳の女性から、「あなたがすっと好きでした。結婚できなきゃ死んじゃいます!」と言わんばかりの熱烈かつ一方的なラブレターを何度か受け取り、執拗かつ一方的に言い寄られた末に(チャイコフスキー自身の軽率な態度もあったのですが)生涯の痛恨となる不幸な結婚をしてしまいます

精神的に幼稚で夫に対して何の配慮もできなかった妻と、作曲稼業一筋で軽率な気持ちしかない
(しかも同性愛癖のカムフラージュの目的もあった)夫との関係は上手くいくはずもなく、結婚後たったの9週間で破局を迎えます。しかも、妻は破局後にやけになったのか、他の男らと関係を持って3人の子供までもうけてしまいました。

(が、破局後も自らの責任を感じていたチャイコフスキーは正式には離婚せず、ずっと「妻」に生活費を送り続けました。ちなみにその「妻」はチャイコフスキーの死後も生き続け、1917年ロシア革命で帝政時代が終焉を迎える中、精神病院で息を引き取っています。)

結婚当時のチャイコフスキー(左)とミリューコヴァ(右)の写真
(チャイコフスキーと妻ミリューコヴァ)

この不幸な結婚は彼の精神に大きなダメージを与えました
そして、不安定になった精神状態を落ち着かせるのと、苦痛の種であった妻から逃れたい思いもあって、彼は1884年頃までロシア以外の外国を転々とする半流浪生活を送るようになります。

(もちろんその様な生活が送れるようになったのはフォン・メック夫人の援助あってこそ何ですが・・・)


その流浪先として長く滞在していたのはスイスイタリアでした。
その中でも、厳寒の祖国ロシアでは到底体験できない南国の陽気さと、古代ローマ帝国の昔から続く重厚な歴史が周りを彩るイタリアの光景は特に印象に残ったようで、はじめこそ環境に違いに戸惑いを覚えたものの、チャイコフスキーはそこに自分が理想としていた「陽光の明るさと暖かい安らぎ」を見いだし、次第に憧れ魅了されていったに違いありません。

イタリア南部にあるカプリ島のリフトから見下ろした地中海の風景ローマにあるコロッセオ(古代ローマ時代の競技場)の写真
<イタリア南部のカプリ島から見た地中海(左)ローマの有名な史跡コロッセオ(右)>

そして、そのようなイタリアの光景とそれに対する憧れの気持ちが彼の「作曲家魂」に火を付けたのでしょう。
上記の言葉のように、1880年になって、チャイコフスキーは自分なりの解釈で明るいイタリアの民謡や舞曲を織り交ぜた作品の構想を打ち立てます

・・・それが、次に詳しく紹介します「イタリア奇想曲」なのです。
(上のリンクをクリックすると、次の「その2:解説編」ページへ進みます。)



(注)グリンカのスペインもの

ミハイル・イヴァノヴィチ・グリンカの写真
<ロシア国民楽派の祖>
M.I.グリンカ
(露: 1804-1857)

これは、ロシアの作曲家グリンカの作品であった「スペイン序曲」(1848年作 改訂51)のことと思われます。

ミハイル・イヴァノヴィチ・グリンカは「ロシア国民楽派の祖」と言われ、チャイコフスキーほど有名ではないものの、ロシア音楽史上では輝かしい業績を残し、チャイコフスキーも崇敬の念を抱き続けた大作曲家です。
彼はドイツやフランス、スペインなどの西欧音楽にふれて、それらの音楽文化を吸収する一方、西欧音楽とロシア民族音楽との融合を画策していましたが、志半ばにして滞在先のベルリンで客死しました。

日本では、彼の代表作であったオペラ「ルスランとリュドミラ」序曲の旋律が有名になっているぐらいですが、西欧音楽を必死で学んできただけあって、彼の作品には滞在先の音楽を主題に取った作品も残されています。

その一つが、チャイコフスキーが「グリンカのスペインもの」と称した2つの「スペイン序曲」(「ホタ・アラゴネーザ」「マドリードの夏の夜の思い出」)だったのです。

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参考および写真出典:
作曲家別名曲解説ライブラリー8 (音楽之友社)
大作曲家の世界4 (音楽之友社)
新音楽辞典 (音楽之友社)
チャイコフスキー その作品と生涯 (新読書社)
クラシック音楽史大系11 (パンコンサーツ)
死因を辿る−大作曲家たちの精神病理のカルテ (講談社)

構成・文: 岩田倫和
(チェロ)


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