(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

大栗裕・大阪俗謡による幻想曲

−補遺−




大栗裕の写真(大阪フィルハーモニー交響楽団第357回定期演奏会プログラムより抜粋)
<作曲者>
大栗 裕
(1918-1982)

朝比奈 隆の写真(書籍「朝比奈隆のすべて」より引用)
<初演の指揮者>
朝比奈 隆
(1908-2001)

<大栗裕の遺したもの>
−大栗裕の手書き譜−

 大阪の放送局の倉庫での数十年におよぶ死蔵を経て、関西のある芸術系大学の図書館に寄贈された、茶色に変色したオーケストラのパート譜を見たことがある。
 木管楽器や金管楽器、打楽器用のそれと違い、数十人にものぼる奏者が舞台上に登場する弦楽セクション、とりわけヴァイオリン用には、同じ内容のパート譜が10部以上も必要になるが、市販されている楽譜セットには、それは一部しか入れられていないので、オーケストラは自分たちの必要数に応じた数の楽譜を、何らかの方法で複製してそろえなければ、本番はおろか練習さえもできない。現在ならばそこでコピー機の出番が巡ってくるわけだが、それのなかった時代となるとこつこつと手で書き写すしか手段はない。
 私が例の楽譜を見たときも、古風な天使の絵の描かれた表紙のついた印刷譜につづいて、続々と手書き、糸綴じの筆写譜が出てきた。流れるようなスラー、朴訥なタイ、大きく大らかな音符、小さく几帳面な休符、角張った数字、丸々としたアルファベット、黒インク、紺インク……。それを書いた人たちの気性さながらに、ばらばらな印象を与えている各ページ。今より物質的に格段に貧しい社会にあって、その分だけ多い苦労に耐え、しかし揺るぎないミュウズ――音楽の女神――への忠誠は胸に、世の人たちを音楽で励ましつづけた先輩音楽家たちの情熱が、そこからは今でも放散されているかのようだった。

<関西交響楽団の映画音楽と大栗裕>

 大栗裕が朝比奈隆の呼びかけに応じて関西交響楽団に移り、やがて退団するまでの1950年から'66年までの16年間は、彼らの楽団が止むなく、映画音楽のレコーディングの仕事に手を出し、その結果招来した昼夜兼行の毎日によって深刻な過労に追い込まれ、本業であるはずのクラシックの演奏レヴェルを極端に低下させて酷評を浴び、そうした惨状を打開すべく'60年に少なからぬ数の楽員を解雇して組織改革を断行した上で、「大阪フィルハーモニー交響楽団」の名で再出発、ところが息つく間もなく'65年の一大経営難……といった、当事者たちにとって最も辛く苦しかったであろう時期にそっくり重なる。
 皮肉にも'50年代の関西交響楽団の命綱となっていた映画音楽の仕事。その現場にも写譜の作業は、やはり煩わしくつきまとっていただろうが、大栗がその作業に、中心的役割を担うひとりとして関わっていたことも、おそらく間違いがない。

<パート譜起こし−作曲家の”実地研修”>

 作曲家の手書きの新作のスコア――全ての楽器の動きが一覧できる体裁の楽譜――からパート譜を起こす作業には、実は作曲の知識が必要とされる。作曲家とて生身の人間なのだから、スコアにたくさんの間違いを書き込んでしまう。写譜をする人は、それらを適宜修正しながら仕事を進めてゆかねばならないが、その際の判断の基準として作曲の知識が求められる、という訳である。日本語を読み書きできない人は、日本語文の校正には携われないのと同じ理屈。
 時あたかも日本映画の黄金時代(※1)。ひっきりなしに持ち込まれる、新作映画のための真新しいスコア。さあ写譜だ、となったとき、関西交響楽団の楽員たちのそばには、新進作曲家でもある大栗がいた。
 もっとも大栗の側も、こうした作業を通じて、はからずも作曲家としての自らの技芸を、より充実させていったのではなかろうか。各楽器に割り当てられた音符を、丹念にスコアから拾っては書き写し、その結果出来上がったパート譜を使っての、自らも参加しての音出し。ヴァイオリンやチェロの、何番目の弦をどう押さえれば望む表現を得られるか、木管楽器をどのようにハモらせれば、欲しい和音が響くか、金管楽器はいつ鳴らせば、求める情緒が得られるか、無数にあるといってもよい、打楽器の種類と効果は――。1枚の楽譜を2つの立場から眺める経験は、大栗にとって願ってもないオーケストラ編曲法の実地研修になったと思われる。このことはつまりは、この世で最も高価で贅沢な楽器の構造、取り扱いについての学習なのであるから、本来は無名の青年作曲家にとって一番積み難い部類の修養のはずなのだ。戦争中、軍楽隊に所属し、編曲、写譜、指揮の全てを体験したことで、管楽器の用法を学ぶことができた、と、芥川也寸志、團伊玖磨(※2)の2人も回想している。

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 得難い勉強をしたとはいえ、充分な急用もままならぬ過酷な毎日――。そんな大栗の苦学の日々も、やがて不朽の名篇『大阪俗謡による幻想曲』として結実、辛苦をともにした朝比奈の指揮の下、世界有数のオーケストラを介し、ドイツの楽都で鳴り響いた。そしてこの出来事によって、大栗には作曲家としての、朝比奈には世界的指揮者としての人生の扉が、それぞれ開かれた。この2人、10歳の年齢差こそあれ、奇しくも誕生日は同じ、なのだとか。

 ――あるいは私も、あの古い楽譜の束のなかに混じっていた、大栗青年が書き写したそれを、そうとは知らずに触ったのかもしれない。ふりかかる苦難と闘いつつ音楽を奏でつづけた音楽家のひとりである彼が書いた、今ではすっかり赤茶けてしまったそれを。

 

<脚 注>

※1:日本映画の黄金時代

 1950年代、とりわけその後半期は、6社もの大手映画制作会社――松竹、東映、東宝、新東宝、日活、大映――が並立し、それぞれが年間50〜60作の新作を世に送り出していた、日本映画の黄金時代である。この時期の主要作品は黒沢明『羅生門('50)』『七人の侍('54)』、木下惠介『楢山節考('58)』、溝口健二『雨月物語('53)』なとどちった、今日なお高い評価を保つ芸術的名篇をはじめとして、佐田啓二、岸恵子主演の『君の名は('53)』や、石原裕次郎、北原三枝主演『狂った果実('56)』に代表される娯楽性の強い大衆的作品、特撮映画の元祖とも呼ぶべき『ゴジラ('54)』にいたるまで、文字どおり百花繚乱の様相を呈している。
 観客動員数の頂点は'58年の1127万人、劇場数のそれは'60年の7457館であるが、同年にはすでに動員数は減少に転じており、この推移は一般家庭へのテレビの普及の本格化と期を一にしていた。ちなみにその10年後の'70年には、劇場数は往時の約半分の3246館、動員数にいたっては約5分の1の246万人にまで凋落、製作各社の倒産、統合、路線転換などの動きと相まって、産業としての映画の著しい衰退を印象づけた。

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※2:團伊玖磨(だん いくま)

 作曲家(1924〜2001)。'45年東京音楽学校卒。'53年に芥川、黛と共に「3人の会」を結成、彼らと共に戦後日本を代表する作曲家として、叙情的な旋律美をたたえた声楽曲、オペラでとりわけ高く評価された。なかでも'52年作のオペラ『夕鶴』は、今日なお上演回数の最も多い邦人オペラのひとつ。この他の主要作品にはオペラ『ききみみずきん』『ひかりごけ』『TAKERU』、合唱曲『筑後川』『岬の墓』など。洒脱な筆致のエッセイストとしても親しまれた。

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参考文献:
 
そなた・こなた・へんろちょう  野口幸助著 音楽之友社刊 1971年
  数字でみる戦後50年 日本のあゆみ 政治・経済・産業・生活 PHP研究所編・刊  1995年
  図説日本産業体系・第8巻  産業教育協会編 中央社刊 1963年

文: 上柿 泰平(パーカッション)
構成: 岩田 倫和(チェロ)

(2003.9.15 新規追加)

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