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<作曲家としてのデビュー作「赤い陣羽織」>
'55年には自らが作曲したオペラ『赤い陣羽織』(ファリアの曲で有名なバレエ「三角帽子」のストーリーを作家の木下順二が江戸時代の日本に置き換えた内容)が朝比奈指揮の関西歌劇団によって初演されるという栄に浴し、少年時代からのもう1つの夢――作曲家――としてのデビューも果たす。ベルリンでの劇的な“俗謡”の上演はその翌年のことであった。
<作曲家として、教員として>
その後は'66年に大阪フィルを退団、音楽大学の教壇にも立ちつつ精力的な作曲活動を展開、'82年に病没するまで、さまざまな演奏形態による数多くの楽曲を世に送り出しつづけた。
オーケストラのための『前奏曲』『交響的断章』『大阪のわらべうたによる狂詩曲』、自らの音楽的ルーツでもある吹奏楽のためには『ディヴェルティメント』『小狂詩曲』『仮面幻想』『神話』、カンタータと銘打たれた『大阪証券市場100年』、合唱組曲として『陰陽師』、オペラなら『夫婦善哉』『雉っ子物語』、バレエ音楽『浪速の宮』……。
この他にもテレビ、ラジオ番組のための音楽、マンドリンや邦楽器のための合奏曲、ミュージカルなどが遺されており、列挙した作品群は全体のごくごく一部に過ぎない。
彼が専業作曲家として活動できた期間も、人として生きていられた時間も、どちらもあまり長くはなかったのだから、これは驚嘆すべき仕事量である。
<大阪俗謡による幻想曲の”その後”>
−再創作、吹奏楽曲への編曲、そして”原典回帰”−
'55年に書かれたこの曲の手書きスコアは、ベルリン・フィルによる上演後、同団の資料室に寄贈された。
'70年になって――おそらくは曲に演奏の機会が巡って来、必要とされたためであろう――大栗は手許になかったこの曲のスコアを、自らの記憶を頼りに再創作したが、その際には芸術的動機に基づく修正と共に、記憶違いなどからくる意図的でない改変も書き込まれたと見え、“55年原典版”と“70年改訂版”との間には多くの差異が存在している。
その最大のものは題名で、55年版では『大阪の祭囃子による幻想曲』とされていたそれが、70年版では現行の『大阪俗謡による幻想曲』に改まっている。この他楽器の使い方、音楽の展開などにも、両版には多くの相違点が認められる(※9)。
また大栗は'74年にこの曲を吹奏楽のために編曲し、その版は同年に大阪市音楽団によって初演された。そして他方では、他人の編による簡略化された吹奏楽版が出版されたりもし、曲の魅力も手伝って多くの吹奏楽団がそれらの楽譜を使用してこの曲を演奏するようになってゆく。
こうしたいきさつと、國の隅々にまで吹奏楽が普及している日本の音楽的風土により、今日まで多くの音楽ファンは“俗謡”を吹奏楽の曲として認知してきた。
今日この曲が――その本来の姿である――オーケストラで演奏される際には、“70年改訂版”に則るのが一般的であり、今回の我々関西シティフィルによる上演もまた同稿によるもの。
大阪フィルハーモニー交響楽団は、'99年11月に開催した第333回定期演奏会で、日本国内ではじめて“55年原典版”を演奏、一般紙にも報じられ、多くの人々の興味をかきたてたが、その日のステージでは、ベルリンから実に43年ぶりの帰郷を果たした大栗自筆のスコアが使われた、とのことだ(※9)。
<雑 感>
−「大阪俗謡による幻想曲」が醸し出す「大阪」の雰囲気−
民謡、謡曲、仕事歌やわらべうたを連想させる旋律、大阪ことばの抑揚や音節構造に由来するとされるリズム語法、高温多湿な商都の雰囲気さながらの熱気、華やかさ――。大栗作品は自らの顔立ちや故郷を、何ら恥じることなく率直に聴き手のミミに届ける、特異だが実に親しみ易い音楽だ。
高校生のブラスバンドが演奏する『大阪俗謡による幻想曲』を聴いた私の母は「曲中で何度も下駄の音が聞こえた」と言った。ある時期以前に生まれた世代は、大栗作品から街角の喧騒や物売りの呼び声、子供たちのざわめきに隣人たちの気配、町家の暗がりから坪庭の湿り気……などといった、遠い昔の町の風景を聴きとることができるらしい。
――それにしても、“俗謡”のいったいどこの部分で「下駄の音」など聞こえるというのだろう。私はほとんど下駄を履いたことがない。
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