(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

フォーレ・「ペレアスとメリザンド」組曲

−曲の概要(その1)−


「ペレアスとメリザンド」組曲
より第3曲「シシリエンヌ
(シチリアーノ)

(注意!)プラグインがないのでMIDI再生できません。
MIDI形式:MIDIプラグインの再生ボタンを押すと再生されます。)

とっても小さなコンサート会場より、 rs@なむ2様(データ作成者)のご厚意で転載




劇音楽「ペレアスとメリザンド」 作曲当時(1900年頃)のフォーレの写真
<作曲者>
ガブリエル・フォーレ
(仏:1845-1924)

モーリス・メーテルランク(メーテルリンク)の写真
<原作者>

モーリス・メーテルランク
(ベルギー:1862-1949)

「ペレアスとメリザンド」 作曲の沿革>

−証言1−
「私は17年前にパリを訪れた時以来、フランス語を喋っていませんでした。そして何とかフォーレ氏に、音楽が最も必要と思われる箇所を読んで、理解してもらいました。素敵なフォーレ氏は優しく聞いて下さり、全力を尽くすと謙遜されながら仰って下さいました。
(1898年3月〜4月頃 イギリスの女優パトリック・キャンベル夫人が、フォーレに劇付随音楽「ペレアスとメリザンド」の作曲を依頼した際のキャンベル夫人の回想録より)

−証言2−
「パリに戻ったらすぐに『メリザンド』に取りかからなくてはなりません。仕上げるまでに、ひと月半ほどしかないのです。実際、頭の中では出来上がった部分もあるのですが・・・。」
(1898年4月25日頃 フォーレ自身が書いた妻宛の手紙より)

−証言3−
「一口で申し上げると ・・・・ 私は今までの人生の中でおそらく最も完全で、最も心地よく、最も調和のとれた美しさを、あなたを通じて見させて頂いた思いがします。」

(1898年6月21日の英語版「ペレアスとメリザンド」初演を見て感激した原作者メーテルランクキャンベル夫人に宛てた手紙より)

−証言4−
「ガブリエル・フォーレ氏の音楽は、魅力的な舞台の演出に、一部貢献することが出来た・・・。」

(1898年6月25日刊の「Athenaeum(アテネウム)」誌より、同年6月21日公演の英語版「ペレアスとメリザンド」を評して)

(作曲者フォーレとその音楽)

「ペレアスとメリザンド」の他に、「レクイエム」
(モーツァルト、ヴェルディのものと合わせて「3大レクイエム」ということもある)「夢の後に」「舟歌」などの曲で知られ、近代フランス音楽の発展に多大な寄与をした作曲家ガブリエル・フォーレは、1845年5月12日にパミエ(フランス南部のミディ・ピレネー州アリエージュ県にある町)で、音楽とは全く関係のない血筋の家(父は師範学校の教師)で生まれました。

少年の頃に教会のリード・オルガンを演奏するなど、音楽の才能が認められたので、9歳の頃パリの古典宗教音楽学校に入り、そこで師となり、後には生涯の親友となるカミーユ・サン=サーンス
(仏:1835〜1921)と出会ったことから、偉大な音楽家への道を進むことになりました。

フォーレの音楽は、宗教音楽と縁の深かった彼の生い立ちと、謙虚で慎み深い性格が影響してか、宗教的とも言える神秘的かつ穏やかな作風の多いのが特徴で、似たような生い立ちを持ちながら、躁鬱的な激しさを併せ持つ(今回の当団の演奏曲目である)「幻想交響曲」を作曲したベルリオーズとは対極をなしています
(現にフォーレ自身は、ベルリオーズの作風を嫌っており、サン=サーンスから「もっと理解を示したらどうか」と指摘されたほどでした。)


(「ペレアスとメリザンド」の作曲・・・依頼はされたものの)

さて、そのフォーレが1898年3月末頃に出入りしていたロンドンのサロンで、女優のパトリック・キャンベル夫人より、メーテルランクの戯曲「ペレアスとメリザンド」(英語版)の劇付随音楽作曲の依頼を受けました。
(キャンベル夫人は、自身のプロデュースのため、自分が主演する予定の「ペレアスとメリザンド」の劇付随音楽の作曲者を各方面に求めており、その中にはフォーレのライバルだったクロード・ドビュッシー(仏:1862〜1918)の名もありました。ちなみにドビュッシー「(劇付随音楽は)私の作風に合わない」とのことで激しく拒絶しました。)

その時のフォーレの返事は、キャンベル夫人の回想によると「快諾して頂いた」(証言1)ようでしたが、初演の日が同年6月21日と発表されていた上に、当時のフォーレ自身は専業作曲家でなく、パリ国立音楽院作曲科教員でもあったために、視察旅行や院内試験用の課題曲作成などの公務が控えていて、まともに作曲できたのは、4月末頃からだったようです(証言2)

もちろん作曲中にも公務は続いたために、フォーレはスケッチ
(ピアノ演奏できるぐらいの作曲)のみを行い、室内管弦楽用(おもに1〜2管編成で弦楽器奏者が20人強程度の小規模オーケストラ)編曲を弟子のシャルル・ケクランに託しました
(ただし、編曲にはフォーレの監修があったので、完全にケクラン一人の力で編曲したわけではないようです。と言っても「やっつけ仕事」の誹りは拭えませんが・・・)

また、フォーレは自分の「お気に入り」音楽のリバイバルも考えていたようで、
(かつて依頼主が破産したために出版されずお蔵入りした)戯曲「町人貴族」の劇付随音楽から「シシリエンヌ(シチリアーノ)をそのまま抜き出し「ペレアスとメリザンド」第2幕の前奏曲にしてしまいました。
(と言いつつも「やっつけ仕事」の手間を省く目的もあったでしょうが・・・)

そうした努力の甲斐あって、劇付随音楽「ペレアスとメリザンド」は無事初演に間に合う形で完成し、当初の予定通り1898年6月21日に初演されました。


(初演は大成功!・・・だけど)

そして、結果は大盛況、大成功で、当日フォーレと共に臨席していた原作者メーテルランクも大感激だったようです(証言3)

ですが・・・ただ、それは「劇」として、トータル面での成功であって、フォーレの音楽は所詮「劇付随音楽」・・・原作者メーテルランクも舞台設定や役者の演技に感動したのであって、あまり音楽まで耳に入ってなかったようです
証言3でも、キャンベル夫人に対する賞賛はありますが、フォーレの音楽に対しては特に触れておりません。)

ただ、メーテルランクと共に見ていた
(後にメーテルランク夫人となった)ジョルジュエット・ルブランは、フォーレの音楽が結構気に入ったようです。
(記事と関係ありませんが、彼女の父はモーリス・ルブラン・・・有名な「怪盗紳士ルパン」シリーズの原作者です。)

当時のマスコミ記事を見ても、フォーレの音楽に対してもかなりの賞賛もあったようですが、一方では(証言4)のように、
(ある種「劇付随音楽」の本質を突いている)批判的な記事もあったので、本当にフォーレの音楽自体が、舞台や役者の演技ほどに高く評価されていたのかどうかは疑問に残るところです。


(「ペレアスとメリザンド」組曲の誕生)

ただ、フォーレはよっぽどこの成功に気を良くしたのか
(または劇によっておざなりがちな自分の音楽を浮き立たせるため?)、これらの劇付随音楽を、劇から独立した管弦楽組曲にすることを思い立ちました。
そこで、フォーレはケクランの室内管弦楽用編曲の中から「シシリエンヌ」以外の3曲(「前奏曲」「糸を紡ぐ女」「メリザンドの死」)を選び出し、さらに編成を大きくして、通常の2管編成管弦楽用に新たに編曲し直しました

そして、それらの3曲は1901年2月3日、パリにてカミーユ・シュウィヤール指揮のラムルー管弦楽団により初演されました。

その後、フォーレはやっぱり「お気に入り」のリバイバルを目指したようで、あの「シシリエンヌ」組曲の第3曲として、ケクランの室内管弦楽用編曲をそのまま用いた形で組み入れ今日聴かれる「ペレアスとメリザンド」組曲の形に仕上げました。
劇付随音楽の作曲から14年後の1912年のことです。
(おそらく、フルートのソロ演奏を主体とする「シシリエンヌ」が他の曲と違って、根っからの室内楽向きであったために、当初組曲に取り入れることをためらったのかもしれません。もちろん、ケクランの編曲が優れていたこともあったでしょうが・・・)


参考:
管弦楽組曲「ペレアスとメリザンド」  総譜 (Eulenburg)
「シシリエンヌ」 総譜 (全音楽譜出版社)
評伝フォーレ (新評論)
対訳「ペレアスとメリザンド」 (岩波書店)
「青い鳥」 (新潮社)

構成・文: 岩田倫和
(チェロ)