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「ペレアスとメリザンド」を廻る3人 −
(戯曲・劇付随音楽(組曲)・オペラ)
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<原作者>
モーリス・メーテルランク
(ベルギー:1862-1949)
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<劇付随音楽の作曲者>
ガブリエル・フォーレ
(仏:1845-1924)
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<オペラの作曲者>
クロード・ドビュッシー
(仏:1862-1918)
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1.「ペレアスとメリザンド」のストーリー紹介について
本編のストーリー紹介は、原則として、メーテルランクの原作戯曲「ペレアスとメリザンド」に沿って紹介していきます。
もちろん、「ストーリー紹介」の趣旨上、台詞全てを記述するのではなく、著者(私)の主観に基づいて、台詞に基づいた話の内容と、そこに隠された意味を脚注として紹介するのがほとんどです。
よって、中には解釈として、おかしいところがあったりするかもしれませんが、あしからずご了承頂きますようお願いいたします。
また、後述のドビュッシー作曲のオペラ「ペレアスとメリザンド」(以下オペラと略)をご存じの方や、オペラの方のストーリーも知りたいと思われる方のためにも、原作とオペラの台詞との対比(台詞の省略部分、倒置部分、追加部分など)も、主だったところで紹介していくつもりですので、オペラ鑑賞者の方にもお楽しみいただければ幸いです。
(以下はドビュッシーのオペラに関連した内容ですので、興味のない方は、登場人物紹介、または本編へ進んで下さい。)
2.原作戯曲とオペラとの違い(概略)
オペラ「ペレアスとメリザンド」は、原作戯曲を脚本として、作曲者のドビュッシー自身が4つの場を削除(第1幕第1場、第2幕第4場、第3幕第1場、第4幕第2場、第5幕第1場)すると共に、台詞を適度に省略や移動し、それに音楽を付けたものです。
ただ、そうした一部改訂はあるものの、基本的なストーリーや登場人物の変更もなく、基本的には原作戯曲に忠実な形で構成されています。
これは、当時(オペラとしてのウケを少しでもよくするため)登場人物の変更や創作、基本的なストーリーの変更が当たり前だったオペラ制作の世界では、異例とも言えるほどの忠実さでした。
おそらく、これが他の作曲家(もしくはオペラ脚本家)であれば、約半分の場を削除、または統合した上で(当時のオペラで場数が10以上というものはほとんどなかった)、台詞の枝葉の部分を削り、ストーリーをかなりシンプルにしていたことでしょう。
ドビュッシー自身が、いかにこの原作を気に入り、大事にしていたかよく分かります。
また、このオペラ音楽の最大の特徴は、オペラ(歌劇)であるにもかかわらず、「台詞が歌われない」ということです。
つまり、台詞は全て朗読調で「語られる」ものであって、決して「歌」の形を取っていないので、よくオペラ歌手のリサイタルで取り上げられるような「〜の歌」「〜のアリア」「〜の二重唱」というものが存在しません。
これは、おそらく原作の戯曲とその神秘的な雰囲気を重視するあまり、歌に適した台詞(歌詞)が作れなかった(作ろうとしなかった)のと、(歌うには不適な)数多くの台詞を適度な時間で収めなくてはいけないため、従来の歌唱重視のスタイルがとれなかった(とりたくなかった)ためだと思われます。
一方では、当時フランスでも流行っていたリヒャルト・ワーグナー(ドイツのオペラ作曲家)の歌唱とオーケストラ音楽中心の派手なオペラ(楽劇)に対して、意識的に対抗したかったという理由もあったようです。
(付録)オペラ「ペレアスとメリザンド」の成立
(ドビュッシーの脚本探し)
ドビュッシーはかねてよりオペラ作曲を企図していましたが、脚本として最適なものがなく、なかなか作曲には踏み切れませんでした。
彼が求めていたのは、当時もてはやされていた現実主義的(平たく言うと愛憎あり殺しありなどの派手なワイドショー的な)路線でもなく、だからといってワーグナーがよく用いていたギリシャ神話や北欧神話のような壮大な神々の叙事詩ではなく、(時や場所すら特定できないほどに)幻想的な内容で、かつ自分の音楽により一層の彩りを添えるほどの余地を持てるような内容の脚本だったのです。
そこへ現れたのが、当時フランスの新進気鋭の劇団「制作座」が1893年5月17日の制作劇場で演じたメーテルランク作の散文悲劇「ペレアスとメリザンド」でした。
時間や場所すら特定できない架空の舞台(架空の国アルモンド)、謎の女性(メリザンド)の存在、抽象的かつ暗示的なストーリー、消えゆくようなラストシーン(静寂の中に死んでゆくメリザンド)・・・まさに幻想的な設定とストーリーのこの戯曲こそドビュッシーが長年追い求め続けた脚本でした。
(原作者メーテルランクとの交渉)
さて、この戯曲を見て感激したドビュッシーが、オペラ化の許可について原作者のメーテルランクに申し出たところ、1893年8月8日に口頭での許可が出ました。
そこで作曲を本格的に開始して、同年11月にはオペラ化に必要な改編部分について相談した後、1895年8月に第1稿(ラフスケッチ)が完成しました。
その旨を原作者に伝えたところ、「この作品は完全にあなたのものであり、いつでもどこでもあなたの望むままに演じることに異存はない。」(※)という意味の好意的な返事をもらいました。
(配役決定、原作者との決裂)
楽譜ができてからも初演できる環境がなかなか整いませんでいたが、1901年にようやく初演の見込みが出来て、配役決めなど初演に向けての準備段階となりました。
このときメーテルランクの心中には、オペラ歌手で自分の愛人(後に夫人となる)ジョルジュエッタ・ルブランをメリザンド役にしてもらいたいという強い願望があったのですが、ドビュッシーがこれを退けて新人のメアリー・ガーデンをメリザンドにおいたため、メーテルランクはこの配役に激怒して話がこじれ、二人は仲違いしてしまいます。
自分の愛人を蔑ろにされたメーテルランクの怒りようはすさまじく、マスコミを通じて、「このオペラは自分の作品ではない。初演の失敗を強く願う。」という意の示威表明を行うと共に、オペラの原作の使用を差し止める裁判を起こしましたが、裁判については、かつてメーテルランクがドビュッシーに宛てた手紙の内容(※)が有効とされた(原作の使用権はすでに認められている)ため、メーテルランク側の敗訴となりました。
(メーテルランクの「ドビュッシー抹殺計画」)
また、彼はドビュッシーとの拳銃射撃による決闘(合法的な抹殺)を企図し、決闘の場で確実にドビュッシーを殺すため、「動く標的」として近づいてきた黒猫を射殺するなど、射撃訓練を入念に行ったといいます。
しかし、この決闘は、申し込み(ドビュッシー宅への殴り込み)の段階で、ドビュッシーが普段の貴族的な雰囲気らしからぬ恐れ様と狼狽ぶりを見せたため(跪いて命乞いをしたんでしょうか?)、メーテルランク本人が白けてしまい、実現されずにすみました。
もし、ここで決闘が実行されていれば、その後生み出される二人の傑作(夢幻劇「青い鳥」、交響詩「海」など)が出来なかったかもしれませんし、それらに影響を受けた戯曲家や作曲家たちの作品にも影響が及んでいたかもしれません。
いずれにしても、全く男らしからぬドビュッシーの態度は、後の文学、音楽界にとって結局はプラスになったようです。
(1902年4月30日−波乱含みの初演)
初演に向けての稽古が始まった際には、メーテルランクの支持者による妨害工作とドビュッシーの支持者による妨害工作の阻止がぶつかり合って、なかなかの喧噪ぶりだったようですが、ドビュッシー支持者の努力もあって、初演当日はたいした妨害もなく無事成功したとのことです。
(ドビュッシー死後の「和解」)
1918年に直腸癌でドビュッシーが亡くなり、翌年にはその一人娘エマが亡くなった後に、メーテルランクはオペラ「ペレアスとメリザンド」の初演時のメリザンド役であったメアリー・ガーデンに会い、「このオペラこそ本当の「ペレアスとメリザンド」だ・・・」という旨のコメントを発したそうです。
このころにはオペラと演劇の上演回数の差が顕著に表れていたでしょうし、また、同い年にもかかわらず不幸にも先立ってしまった作曲者とその娘への憐憫の情も多少はあったのでしょう。
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