(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

ペレアスとメリザンド
− 注釈集(第5幕) −


 

(注1)オペラでは省略されているが・・・

この場では、ペレアスが殺された後に何が起きたかが、結果だけではあるが第三者(女中たち)の口を通して語られている
この戯曲の中において、唯一「解説的な」内容の場である。

オペラで省略されているのは、作曲者のドビュッシーが、このような近所のおばちゃんの井戸端会議のような解説的な場があると、オペラの神秘性が損なわれると判断したためであろう。

また、第1幕第1場で解説したように、オペラでの女中たちは第5幕第2場でしか登場しないため、第1幕第1場と同様に、彼女らの台詞を全くなくすことによって、メリザンドの「お見送り役」としての神秘性を高めるという目的もあったのだろう。

にしても、この戯曲全体の流れを把握する上でも、この場で語られる事実は知っておいて損はない

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(注2)女中たちの待ちかまえている「その時」

ここで言われている「知らせ」とか「その時」とは、もちろんメリザンドの臨終の時である。

それを(メリザンドの伏している)寝室から離れた地下室で、誰が言わなくとも察知できるというのは、やはり彼女たちがメリザンドと何らかの「特別な」関係を持った、ただならぬ存在であることを示唆するものであろう。

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(注3)「死」と「静寂」の暗示

ここでも「死」が「静寂」のうちに訪れることが暗示されている

現に「その時」が訪れたとき、元気に遊んでいた子供たちまで怯えるようにおとなしくなってしまい、城内に完全な「静寂」が訪れることとなる。

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(注4)「真実」はなぜ封印されるのか

ここでは、メリザンドがゴローと共に城門で横たわっていたことや、ゴローがその時自殺未遂していたこと、そしてペレアスが死んだことなど、王族に関わる惨事の全てに対して箝口令(かんこうれい)が敷かれているようだ。

理由としては、ひとえに一連の出来事が国を統べる王族同士の不倫に殺人、傷害、自殺未遂という、王国の存亡に関わる一大不祥事だからであろう。

アルモンド国が、国内の飢饉に外国からの侵略という内患外憂の状態であるにも関わらず、これらの不祥事が公になれば、途端に国中に不安や王族への怒りが広がり、結果、国内の暴動やそれに乗じた外国の侵略が本格化するなど、アルモンド国は衰退どころかこの時点で滅亡するだろう。

現に、この後の第2場においても、アルケルや(登場しないが)ジュヌヴィエーヴが、ペレアスを刺殺してメリザンドの精神に多大なダメージを与えたゴローに対して、それらの愚行を責める様子は全く見られない
(女中のほぼ全てが知っている王族の不祥事を国王が把握していないはずはないだろう。)

また、殺されたペレアスはゴローに比べて国民の人気は高かったかもしれないが、国防の要でもある武将ゴローと違って、公務上の必要性はほとんどなく、死んだとしてもその死因が明白にならない限り国家運営に関わる大事には全くならない。
それはメリザンドについても言えることである。(ゴローの心の支えにはなっても、まともな公務に就いていない以上、国家運営に影響はないだろう。)

残酷な言い方であるが、アルモンド国の「マスコットキャラクター」に過ぎなかったペレアスは、国家と王族の名誉のために存在すら抹消されたに等しいのだ。メリザンドについてもまた然りである。

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(注5)生まれた子供が示すもの

この言葉を額面通りに受け取れば、メリザンドの女児は、母体の精神的ショックによる早産で生まれてしまった、極端な「低体重出生児(未熟児)ということだろう。現代ではNICU(新生児集中治療室)に即入れられてもおかしくはないし、発育不全による「死産」とならなかっただけ「奇跡」に等しいかもしれない。

こうしてみると、確かにメリザンドの子供は、この国の現状と行く先を暗示している「弱々しい生命」・・・すなわち「衰退」の象徴と見ることも出来るが、一方では、これだけ弱々しくとも立派に生きているという意味で、「(僅かな)希望」の象徴と見ることも出来る。

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(注6)無視されてしまったペレアスの死

(注4)を見て頂ければ分かるように、ペレアスの死は無視されても仕方がないほどに王族は混乱の極みにあることが示されている。

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(注7)「真実」は闇の中へ・・・

この台詞の裏を返すと、「アルモンド国がある限りこの真実は決して公にはならない」ということである。

また、この台詞はこれまでの暗示(しるし)と同様、アルモンド国の「最期の日」・・・すなわち「滅亡」を暗示しているものと見なすことが出来る。

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(注8)「自然」の一部であるメリザンドの存在

この台詞はメリザンドの存在自体が、何ら「必然性」や「(自発的な)意志」の伴わない「自然」のものであることを示している。

メリザンドはこれまで言われていたように「水」の「女神」とも「化身」とも考えられるが、それは「水」の性質・・・すなわち自分の意志では動けない「自然」の一部であるということである。

確かに「水」は生命にとって欠かせないものであるが、その存在自体には明確な「理由」はなく、またその発生や消失(状態変化)は他の力(自然環境や動植物などによる力)によってなされるもので、そこに「水」の「意志」や(自発的な)「理由」は存在し得ない
それをメリザンドに当てはめると、彼女の存在もまた「水」と同様に、他の力(ここでは他の登場人物)によって動かされてきたもの・・・すなわち自分の与り知らぬ「運命」に逆らうことが出来ず、翻弄され続けたものなのである。

また、この台詞はメリザンドのみならず、おなじく「自然」の一員である我々人間にもある程度は当てはまる台詞とも考えられる。

宗教的な解釈を抜きにして考えると、大方の人間は明確な理由を持って生まれた訳でもなく、また「死」という「宿命(物理的に逃れられない運命)」を背負い、肉体や精神の苦しみで生きていけなくなれば死ぬ。そこには原因(死因)こそあれど、明確な「死ぬ」理由というのは、大体の場合存在し得ない。

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(注9)オペラでは唯一ペレアスの最期が分かる台詞

第1場がカットされているオペラでは、このゴローの台詞によりペレアスが死んだことが分かる

ただし、原作戯曲でもそうだが、この後ペレアスの死体がどのように「処理」されたのかは、全く話に出てこない
おそらくは、(注4)で考えられる理由により、ペレアスの「死」そのものを隠すため、死体は秘密裏の内に処分され、大方「二度と帰らぬ旅に出た」と公言されている可能性が高い。
また、敵国との国境近くに死体をおいておけば、「旅の途中で敵国の刺客に襲われて死んだ。」という、まことありがちな「死」の理由付けも簡単に出来るだろう。

この台詞を聞いてアルケルや医者が何も答えないのは、すでに全ての事実を知っているからであろう。

「主人公」ペレアスは、この戯曲で「ペレアスとメリザンド」というタイトルにもなっていながら、その「死」が他の古今東西の戯曲やオペラにないほど軽んじられているという、まことに哀れな存在なのだ。

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(注10)自分の意志が働かないメリザンド

この台詞には、この一連の出来事にメリザンドの意志が全く働かず、全てがメリザンドではどうしようもない「運命」によって引き起こされてしまったことが暗示されている。
「解ったような気がする」というのは、おそらく自分が「運命」に翻弄されていたということであろう。メリザンド自身、このようなどうしようもない「運命」による激変から、自分の言動や意志すら解らなくなってしまうのも無理はない。
(注8)の指摘を裏付ける台詞でもある。

ただ、現代医学の見地から言うと、精神的ショックによる一時的な混迷状態にあるとも言えるが・・・

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(注11)ゴローを全く恐れないメリザンド

普通ならメリザンドがゴローを強く拒絶してもおかしくない状況である。
何せ自分の愛する人を刺し殺し、恐ろしいほどにまで自分を追いかけ回して傷つけた相手である。
(だからゴローは始めメリザンドの目に届かない部屋の隅にしか居れなかった。)
にもかかわらず、それをおかまいもなしに妻である自分に近寄らないことを不思議がるところに、メリザンドの「謎」がある。
アルケルや医者もさぞかし疑問に思ったことであろう。

しかし、この後、刺殺される瞬間を目の当たりにしたにもかかわらず、ゴローにペレアスの所在を聞いたところを見ると、精神的ショックによる一時的な記憶喪失(ペレアス刺殺の夜の記憶がない)になっていた可能性がある。

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(注12)やはり記憶喪失?

(注11)でその可能性について触れたが、どうもメリザンドには明確な被害者意識はないようである。

本当に記憶がなかったのか、またはゴローに追われ、傷つけられたこと自体「被害」と思っていなかったのか・・・

第2幕第1場でペレアスに「ゴローは私にキスしようとした」と、被害者意識丸出しであるはずもないこと言ったのに(第1幕第2場の注8第2幕第1場の注5参照)、一方では本当の被害者となってもそれを責めようともしない・・・全くメリザンドは「謎」の存在である。

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(注13)ゴローが確認したかったこと

ペレアスの関係を確認することによって、自分の疑念を確信に変え、強いては自分の愚行をある程度正当化したかったのではないだろうか。

ゴローにはサドマゾ的な面があり、自分の罪をメリザンドに認めさせる(マゾ的な面)一方で、彼女にも自分の罪を認識させたかった(サド的な面)というのが、一般によくある解説だが、それ以上にゴローが何とかメリザンドに「罪」を認めさせることによって、自己を弁護しようとする要素の方が強いと考えられる。

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(注14)どうしても「罪」を認識させたかったゴロー

武将としての本能から、自己をどうしても守りたいゴローとしては、何としてでもメリザンドに「不倫」の「罪」を認めさせたかったことだろう。
ここで罪を認識させなければ、ゴローは自分自身の行動に対して意義(不倫の罪を罰する)が見いだせなくなってしまう。これでは単なる殺人傷害犯である。
「結婚」によって結ばれた「夫」の立場として、逆上するのも(逆ギレなのだが)無理はない話である。

一方のメリザンドにしてみれば、自分が愛しているのだから当然のように取った行動であり、その愛に基づいた行為自体「道ならぬ事」という意識はなかったと思われる。
確かに「結婚」の概念を理解しきれなかった「少女」メリザンドにしてみれば、ペレアスとの愛を「道ならぬ事」と言われるのは、心外であっただろう。

ただ、第4幕第4場でペレアスに言った「あなたのお兄さんにしか嘘は言わない」の台詞や、その後の「本当は・・・本当は・・・」の台詞から、メリザンドがしらを切っているという見方も出来るが・・・

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(注15)「死」を認識したメリザンド

メリザンドはこの時まで自分の容体すら理解できていなかったらしい。
それほどまでに彼女が混迷していたことがよく分かる。

しかし、薄々気付いていたとしても、自分の夫から「死ぬ間際になって・・・」という何の思いやりのない台詞を聞かされれば、相当な精神的なショックを受けるのは必然であろう。


また余談ではあるが、これによく似たシーンが、ほぼ同時代に作曲されたイタリアオペラにある
プッチーニ(伊:1858-1924)作曲のオペラ「ラ・ボエーム」(1896年初演)第3幕である。
貧乏詩人のロドルフォが親友マルチェロの前で、自分の恋人ミミの病状があまりに重く、貧困に喘ぐ自分の力では助けることが出来ないと、本人が隠れて聞いていたのを知らずに告白してしまう。愛する人からの衝撃的な告白に、ミミは「私、死ぬんだわ・・・!」と、メリザンドと同様に強烈なショックを受ける

(ちなみにミミが冒されていた病気は重度の肺結核で、当時は(貧乏人にはとても出来そうにない)十分な休養と栄養をとることで進行を食い止めるしかなかった難病であった。原因菌である結核菌に対して著効を示す抗生物質ストレプトマイシンが開発され、この難病の本格的治療が可能となったのは、オペラ「ラ・ボエーム」が作曲された実に約半世紀後の1944年であった。)

衝撃的な告白のシチュエーションには大きな違いがあるものの、ヒロインが「死」の衝撃を受ける度合いや、その後の顛末(ヒロインの死)、そして「ラ・ボエーム」の舞台がオペラ「ペレアスとメリザンド」作曲者ドビュッシーの母国フランス(「ラ・ボエーム」の舞台は1830年代のパリ界隈)であったことには、不思議な因縁を感じる。

「ラ・ボエーム」を作曲した後、オペラ「ペレアスとメリザンド」を観たプッチーニは、その音楽の斬新さと同様に、これらの舞台やヒロインにまつわる共通点の多さにさぞかし驚いたことだろう。
そして「運命」に従うしかなかった悲劇のヒロイン、メリザンドに深い共感を覚えたに違いない。

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(注16)「本当は・・・」何だったのか?

ここは意見が大きく二分されるところだろう。

一つは、メリザンドの意識が混迷していたために、一度は本当のことを言ったのにも関わらず、ゴローの気迫に負けて思わず「本当は・・・」と口走ってしまったという説、もう一つは、第4幕第4場でのメリザンドがペレアスに言った台詞「あなたのお兄様(ゴロー)にしか嘘はつかない。」を根拠とした、「道ならぬ事はしていない」という言葉自体が嘘だったという説である。

いずれにしても、この後の展開からは、明確な答えが導き出せそうにないが、メリザンド自身が「結婚」に対する意識が軽薄で(その様子は結婚指輪をおもちゃにしたことだけでも分かる)、「少女」らしくペレアスとの「愛」に実直であった様子、しかしその一方では結婚指輪を失った理由を偽るなど、事の重大性を一応認識していた様子、ペレアスとの密会をゴローに観られることを恐れていた様子から、どうも矛盾とも思える二つの意識がメリザンドの中でぶつかり合っていた可能性が高い。

それを考えると、「本当は・・・自分でもどうなのか分からない・・・どう言っていいのかすらわからない・・・」というのが正しいのかもしれない。

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(注17)ゴローの痛恨

「死ぬ間際になって・・・」という「死の宣告」による精神的なショック・・・すなわち精神的な「死」を自ら愛する妻にもたらしてしまったことを、この時ようやく認識したのだろう。
気付いたところで「後の祭り」なのだが。

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(注18)「うんと寒い」のは「死」の象徴

「うんと寒い」とは、彼女自身の体温がうんと下がる・・・すなわち「死ぬ」事であると考えられる。

つまり、メリザンドは自分が「死ぬ」ことに対して、(何となくではあるが)言いしれぬ「怖さ」を感じ始めていたのだろう。

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(注19)泣きそうな子供と「客観的」な母親

メリザンドの子供はおそらく自分の母親の最期を本能で感じ取っていたのだろう。

に対して、母親たるメリザンドの方は「かわいそう」と、まるで他人事のように、あまりにも客観的な態度を示している
おそらく、自分の意識がないときに生まれた子供であるために、「自分の子」という意識があまりないのだろう。
また、これまでの精神的ショックが大きすぎて、もはや正常な感情すら失われていたのかもしれない。

ちなみにこの時に発した言葉「かわいそうに・・・」がメリザンドの最後の台詞となっている。

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(注20)「お見送り」に参じた女中たち

前の第1場で地下室を後にした女中たちがここで登場する。

メリザンドの最期を感じて、この世からの「お見送り」のために参上したのだろう。
この女中たちはメリザンドの入城を出迎え、そしてあの世への旅立ちを見送った、まさにメリザンドの「僕(しもべ)」だったのである。

お出迎えの時に入口を水で清めたり、一同で並んでお見送りするなど、一見俗な見方をすれば、温泉旅館の従業員と同じことをしているだけともとれるのだが、このような暗示と幻想感に満ちあふれた神秘的な戯曲においては、同じ動作もとたんに「水の女神に仕える精霊たちの暗示的な仕草」として、神秘的に扱われるのだから不思議なものである。

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(注21)ゴローが最期に言いたかったこと

おそらく再度メリザンドを責めてしまったことに対する謝罪の言葉だろう。

ただ、メリザンドの臨終間際では何であっても「後の祭り」だが・・・

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(注22)「死」の目前にある魂に他者は入り込めない

この下線部二つのアルケルの台詞は、「死」に際した人間に対して、みだりに雰囲気を荒らすようなことはせず、ただ静かに見送ることこそ、メリザンドにしてやれる最後の「気遣い」であると語っている。
また、消えかけの魂は、その僅かな力で少しでも生きようと、静かな中でも必死で戦っているとも諭している。
(メリザンドの場合にも当てはまるかどうかは疑問だが・・・)

しかし、根っからの武人であり、歴戦の中で阿鼻叫喚の中の突然の死(戦死)ばかり見てきたゴローにとっては、「静寂」の内の「死」などとうてい想像しがたいことであっただろう。

そして、最後の部分「分かったことは全て苦しみのもとだった」には、自分がやっと分かったこと・・・つまり「運命」が、まさにこの一連の悲劇であり、自分の愛した者たちの「死」であり、その結果、それに対して自分が出来るのは「静寂」を与えるのみしかなかったという、出来事そのものと自分の無力さを悔いる気持ちが強く表れている。

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(注23)少々わざとらしいが・・・

言うまでもなく、メリザンドの魂が肉体を離れた瞬間・・・つまりこの時まさに彼女が死んだのである。

この瞬間に気付いたのは、女中たちと医者だけであった。

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(注24)確かに言ったとおりだったが・・・

あまりに静かすぎる死に、「魂とはひっそりと去っていくものだ」と言ったアルケル自身も我が目を疑ったようだ。

また、この台詞には、アルケルのメリザンドに対する「(まだ死んでほしくなかったという)未練」も混じっていることは想像に難くないだろう。

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(注25)「静寂」と「死」、そして・・・

このアルケルの台詞こそ、まさにこの場の根幹であり、メーテルランクの描きたかった主題の一つ、「死」と「静寂」を明確に示す台詞である。

「死」はただ静かに、「静寂」と共に訪れる・・・
原作者メーテルランクが「運命」と、彼自身が理想とする「運命を粛々として受け入れる女性」、この二つと同様に描こうとしていた「静寂なる死」の世界が完成した瞬間である。
メリザンドの「死」によって、メーテルランクの戯曲で描きたかった「主題」がすべて描かれたのである。

しかし、これがすべての終わりではない
残された者たちには、「メリザンドの子供(女児)」という「未来」が残されている
この子供が「女の子」ということを、メーテルランクの女性像である「女性は運命と闘わない。(つまり運命をあるがままに受ける)と照らし合わせて考えると、アルモンド国の辿る「運命」は、そのままこの「子供」の辿る運命に合致すると考えられる。
こうした「僅かな希望」の設定は、「運命」「静寂」「死」という、どうしようもないほど暗い悲しみの中の「僅かに差し込む光」として、ある種の感動を覚える。


さて、これからのアルモンド国の「運命」はどうなるのか・・・

「静寂」の内に終わってしまうこの戯曲のラストからは、明確な結論は出そうにない。もちろん登場人物の誰も予測すらできそうにない。
その辺については、もう読者(視聴者)の想像に任せるしかない。

このような玉虫色の結末もまたこの戯曲の魅力となっているのだろう。

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