(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

ペレアスとメリザンド
− 注釈集(第3幕) −


 

(注1)第3幕第1場の意味するもの

この場の話は、この戯曲のストーリー全体を暗示している面で、かなり重要な場面であるが、オペラでは省略されている

その辺りの重要性を(たった1ヶ月半のやっつけ仕事で作曲したはずの)フォーレは認識していたらしく、非常に興味深い前奏曲「糸を紡ぐ女」(組曲では第2曲)を作曲している。

明るいト長調とほの暗いト短調が短時間にめまぐるしく変化するこの曲の構造こそ、この場で暗示され、この戯曲全体のテーマとなっている、逆らうことの出来ない「運命」のめまぐるしい動きを表現していると考えられる。

おそらく弦楽器のめまぐるしく細かい動きで表現される「糸車」の回る姿を禍福が入り交じる「運命」の移ろいに例えているのだろう。

古来より「回るもの(特に車輪)」が「運命」に例えられる例は多くあり、たとえば占いに用いられるタロットカードの大アルカナ22枚のうち、第10番目は「運命の輪」と言う名前で「運命」が「輪」に例えられ、その意味は棚ぼた的な幸運や突然の不幸に関わる事項である。
そして、オルフの名曲で有名な「カルミナ・ブラーナ(世俗カンタータ)」でも、「虚ろな運命」が「車輪のように回って」、安らぎすら消し去ってしまうという。
また、日本でも「禍福はあざなえる縄のごとし」と、ある種「運命」的なものを「回るもの」に例えている。

フォーレがこのように的確に第1場の意味を把握していた一方で、ドビュッシーはどうもこの第1場をメリザンドの俗的な一面を示すもの、つまりはメリザンドの神秘的な存在感を損なうものとして、マイナスに捉えていたようである。
その証拠にドビュッシーは戯曲版の公演時にこの曲を初めて聴いた時、「糸を紡ぐ女はまるで温泉場のホステスのようだ」と痛烈に批判している。
(確かにメリザンドはこの第3幕第1場でしか家事をやっていない。ドビュッシーにすると、神秘的な存在は運命には逆らうことだけでなく、家事もやってはいけないものらしい。)

戻る

(注2)終末への伏線

イニョルドの言動には、この戯曲の展開の伏線や暗示となるようなものが多く、この台詞もその典型例の一つである。

メリザンドに対する「行ってしまうのでしょう」は、第5幕第2場におけるメリザンド自身の死を暗示しているものであろう。
本人ですら気付いていない「死の運命」を何となく感じ取っているところに、イニョルドの勘の鋭さを伺わせるところである。

それよりも深い意味を持っていると思われるのは、ゴローに対する「行ってしまった」の方であろう。
通常に考えると「狩りに行ったまま戻らない」という意味だろうが、これから先のゴローのペレアスとメリザンドへの嫉妬に狂った言動を見ると、イニョルドの言葉は、自分の知っている父親(像)が「行ってしまった」・・・つまり、ゴローの人格が以前と変わってしまったことをも暗示していると考えられる。
また同時に、ゴローの行動がこれから先、常軌を逸したものになることへの暗示にもなっていると考えられる。

戻る


(注3)イニョルドの会った「あの人」

第1幕で語られた、メリザンドに王冠を与えた「あの人」と同様に、この場で語られるだけで、最後まで分からずじまいである。
しかし、イニョルドは「あの人」と会ったことにより、ゴローやメリザンドの「行き先(運命)」について、おぼろげながら予感することになったと考えられる。

ここで語られる「あの人」はメリザンドに王冠を与えた「あの人」と同一人物であろうか?
だとすれば、おそらくメリザンドをどこかで見守り、そしてその最後まで全てを見通すことの出来る、もしくは全てを支配している見えざる大きな力・・・つまり「運命」なのではないだろうか・・・そこまで深読みできそうでもある。

戻る

(注4)「猟犬」と「白鳥」はゴローとメリザンドの影?

ちょっとわざとらしいシチュエーションではあるが、この猟犬が白鳥を追い回し、水が飛び跳ねる様子は、この先で展開されるゴローとメリザンドの関係を暗示しているものと思われる。

確かに「猟犬」は「獰猛で狩が大好きな」ゴローの象徴、「白鳥」は「水と関係が深く潔白で美しい」メリザンドの象徴とすんなり考えることが出来る。
シチュエーションとして一番結びつくのは、第4幕第4場、ゴローが外苑の泉の前でペレアスを剣で刺した後に、メリザンドを無言で追い回すところだろうか。

戻る

 

(注5)泣いているペレアスとメリザンド

このようなペレアスとメリザンドの間に見られる不可解なシーンの数々は、この後の第5場でイニョルドの口から語られる。
注21参照)

これから先の二人に襲いかかる不幸な「運命」を無意識下で感じ取っているのだろうか?
明確な理由などについては最後まで語られることはない。

戻る

 

(注6)いろんなヴァージョンが存在する「メリザンドの歌」

この歌の内容は原作に書かれているもの(ストーリー紹介本編で掲載しているもの)以外に、原作者(メーテルランク)自身や、翻訳者(英語版はマッカイル)、オペラの作曲者(ドビュッシー)によって、自由にその歌詞が書き換えられている

理由としては、原作者や翻訳者の方は歌の旋律や歌詞をメリザンド役の適性や好みに合わせるためのものであり、またオペラの作曲者については、歌詞をよりストーリーに密接させるためだった。

原作の歌詞はストーリーには直接の関係はないものの、その内容はあまりに暗示的かつ神秘的である。(盲目の人間がランプの光を必要とし、その明暗を感じていることから、通常考えられない場面である。)
ランプの光は「希望」、盲目の姉妹は(未来に待ち受ける運命に対して盲目に等しい)「人間」を示しているのだろうか?

ちなみにオペラの方は、場合によっては戯曲の方でも一部付けられていた歌詞の「私の長い髪は塔の高さに引けを取らず・・・その長さほどに貴方を待つ・・・ただひたすらに・・・聖ダニエル様、聖ミッシェル様・・・聖ミッシェル様、聖ダニエル様・・・私は安息日の正午に生まれた・・・」であり、「聖ダニエル様・・・」のように(オペラでは削除された)第3幕第1場から引用した歌詞などもあって、その組み立ては原作とは全く違う
しかし、その歌詞の意味は原作以上に分かりやすいものとなっている。

ちなみに安息日とは、ユダヤ教で定められた神聖なる日で、絶対神ヤハウェが天地創造から7日目で休息したことから、この日にはあらゆる労働行為を行ってはならないとされている。

戻る

 

(注7)とても親しくなったペレアスとメリザンド

原作のフランス語を見ないと分からないが、この場からお互いの呼び名の代名詞が「tu(きみ、お前)」と、親しいもの同士でしか交わされないくだけた表現になっている
これまでの場で使っていた代名詞がvous(あなた、あなた様)」という敬称であったことから、この場の時点で二人の仲がかなり進展していることが伺える。

戻る

 

(注8)また旅立とうとするペレアス

第2幕第4場でアルケルに引き留められたペレアスは、またここでも旅立つことをメリザンドに告げる。

しかしこの後の展開で、今度はメリザンドに引き留められることとなる。
(それまではアルケル王に引き留められていた。)

所詮、ペレアスは死の運命から逃れることは出来なかったのだ。

戻る

 

(注9)「庭に咲く深紅の薔薇」の正体は?

この時点では何のことか分からないが、その後の第4場で、ゴローが「わしはあの場の一部始終を見ていた」と、この第2場の様子を全て見通していた様子であったことから、おそらくゴロー(の衣装)であった可能性が高い

戻る

 

(注10)メリザンドの髪はメリザンドの体躯の代名詞

第2幕第1場の盲目の泉で、泉に落ちた髪の毛で「予告」されたシーン、有名な「髪の場」である
(オペラでは「メリザンドの歌」に出てくる歌詞の内容で、より明確に「予告」されている。)

メリザンドの長く美しい金髪は、メリザンドの美しい容貌や身体そのものの代名詞であり、ペレアスもそれを感じ取っていたからこそ、その後まるで髪の毛が彼女の裸体であるかのように愛撫したのだろう。

また、女性の髪が女性の重要な身体の一部で、それに魂すら宿るとも言われていたことは、西洋のみならず日本にもあることで、(オカルトっぽいが)「(死んだ少女の髪で出来た)髪が伸びる日本人形」の話もその類のものであろう。

戻る

 

(注11)飛び立って帰ってこない?鳩

この鳩の話については、この時出てくるのみで、以後一切この話が出てくるところはない。やはり本当に帰ってこなかったのだろうか?

ただ、この闇夜に飛び立ってしまった鳩も、先の見えない「運命」の中で迷ってしまった者たち(つまりゴローやペレアスなどの登場人物)を暗示していると考えられる。

戻る

 

(注12)柳の枝に引っかかる髪

原作では自然に引っかかってしまったようだが、オペラではペレアスが「こうやって柳の枝に結んでおけば逃げられない」と、意図的に柳の枝に結びつけてしまう。
この辺はドビュッシーがペレアスのメリザンドの愛しようをより明確に表現するために、わざと行った(台詞としてはほんの少しであるが)大胆な改訂の一つである。

戻る

 

(注13)で・・・

髪がほどけないままほったらかしにされたメリザンドはどうなってしまったのだろうか・・・?

「どうにかしてよ!」とメリザンドが叫んだわけでもなく、原作でもこれ以上のフォローは一切ない。

戻る

 

(注14)城の地下洞穴は「黄泉の世界」?

この第3幕第3場は、一見ストーリーの進行上何の意味もないように思えるが、確かに進行上の意味は一切なく、あってもなくてもいい場である。

しかし、この原作で表現(または暗示)されている世界観を知る上で非常に重要な場であり、さらにこの原作の登場人物や世界そのものの「運命」を知る上でも欠かせない場である。

城や歴史的建造物の地下に洞穴があり、そこが「生者の行く所ではない」忌むべき場所であるという概念は、西洋には結構あったようである。

そのオリジナルとなったのは、古代ローマの「カタコンベ」(地下の骸骨で覆われた共同墓地)などと考えられるが、このような地下洞穴は、陰謀渦巻く西洋王家や有力者たちの幽閉や処刑の場であったり、内部敵対者の粛正に大いに利用されたところもあったろう。

この原作においては、その様な現実的な意味よりも、この死臭漂う地下洞穴がアルモンド国の衰退と滅亡の「運命」を暗示しているという象徴的な意味合いの方が強いだろう。
そのことはゴローも「いつの日にかこの城全体がこの洞穴に飲み込まれかねない」と何気なく語っていることから、登場人物の中にも何気なく感じられているのだろう。

戻る

 

(注15)言いしれぬ感情の表れ?

この洞穴においてゴローはこの洞窟のことをよく知っているにも関わらず、「よろけた」とか「よく見るためにランプの火を揺らした」など、偶然にしてはできすぎた不可解な行動を取る。

次の第4場を見れば分かるが、この時ゴローはメリザンドと親しくなっていくペレアスの様子に言いしれぬ苛立ちを感じていたのだろう。
(単なる親族以上に親しくなっていることは注7の呼び方からだけでも分かる。)

ゴローの不可解な行動には、必ず抑制され切れぬ感情の吐露が見られるが、これは彼の(年老いた老王と病床の義父のために)生きたいように生きることが出来きず、武人としての修羅道を突き進むしかなかった人生を思えば分からなくもない。

戻る

 

(注16)上の空で本心を隠し続けていたゴロー

この時点で、ゴローはペレアスにメリザンドとの件を言うことばかり考えていたのだろう。
この後、ついに念願の本題をペレアスにぶつけることが出来た。

彼の性格には、一度何かの考えにとりつかれると、他のものには考えが及ばないという、偏執狂的な部分もある。

しかし、このゴローの台詞に対するペレアスの回答は全くないまま、この場は終わってしまう
(この後はゴローがした羊の群れの話に対して、「町に牽かれてゆく羊の群れですね」と答えるだけである。)

ペレアスはいったいどう思ってこの話を聞いていたのだろうか?
この後の行動から、少なくともまともに聞いていなかったことは確かである。

戻る

 

(注17)身重のメリザンド

ここで初めてメリザンドが妊娠していることが分かる

確かに第3幕第1場からは、かなりの期間が経っていそうである。

戻る

 

(注18)ゴローは知っていた

彼は結構疑り深い性格らしく、前からペレアスとメリザンドの関係については何かと調べていたようである。

第2幕では「ほとんど喋っていないのでは」と言うほど、却ってペレアスとメリザンドの仲が悪いことを危惧していただけに、それが変わってしまうほどの時の流れを感じさせる場面である。

戻る

 

(注19)ゴローの生死観を伺わせる場面

ゴローは、羊の群れが鳴きながら町に歩いていくのを見て、羊が「断末魔の叫び」を上げながら「町の屠殺場」へ向かっていくものと捉えていたようだが、実は違っていた
このことは、後の第4幕第3場において、羊の群れが鳴かなくなった理由を聞いたイニョルドに対して、「家畜小屋に向かう方向じゃないからだよ」と答えた羊飼いの台詞で分かる。

このシーンは、ゴローの死に関する考え方を示すと同時に、アルケル王がメリザンドの臨終に際してゴローに言った台詞「お前は魂というものが分かっていない・・・彼女には静寂が必要なのだ・・・」への伏線ともなっている
つまり、この戯曲における最後のテーマ、「死と静寂」の陰画(「生と喧噪」と言えようか)ともなっているのである。

この場面は何気ないところであるに関わらず、ゴローの生死観を知る上できわめて重要な部分である
おそらくゴローは武人として戦っている中で、多くの敵味方の兵士たちが断末魔の叫びを上げながら死んでいく様子を見て、その様な考えを持つに至ったのだろう。
(直接は関係ない話だが、ジャーナリストの落合信彦氏がある著書に、胸に旧ソ連製ライフルの弾丸を受けて致命傷を負い、自分の目の前で死んでいった傭兵の最期の様子について記している。その傭兵は「俺は死ぬのなんて怖くないぜ」と普段から言っていたが、最期には大量の血を流しながらも、あらん限りの力で自分を抱きかかえている落合氏の腕を掴み、「俺はもう逝っちまう・・・!頼む・・・このまま放さないでくれ・・・!」と悲壮な叫びを上げたという。)
確かに現実問題として間違いではないが、この「非現実」を扱った作品においては「間違い」とされてしまう。
ゴローはあくまでこの「あり得ない」世界における、「あり得るもの」(現実)の象徴なのだ。

しかし、その重要性が分かってなかったのか、ドビュッシーはオペラにおいてこの場面をカットしている
オペラではこのシーンをカットしたことにより、この後の第4幕第3場(イニョルドと羊飼いの会話)における「対比」の意味がなくなってしまった
丸ごとカットした第3幕第1場といい、つくづく惜しいことをしているとしか言いようがない。

戻る

 

(注20)ゴローの抑制的かつ偏執的な一面

ここにもゴローの性格の二面性が表れている

ゴローは自分の本心を必死で隠そうとしつつ、イニョルドから執拗なまでに自分の知りたいこと(ペレアスとメリザンドの関係)を聞き出そうとする。
第4場でペレアスに警告したにも関わらず、このような事態になっているのは、ペレアスが警告を無視してメリザンドと更に親しくなっていること、ゴローのペレアスに対する信頼が希薄になっていること、更にはメリザンドの愛情に対しても疑念を持つようになったことが考えられる。

ゴローの嫌らしさを感じさせるが、同時に、よき父親として、母国の防人としての心的抑圧を常に受けてきた生い立ちを思うと、ある種の哀れみすら感じさせてしまう。
彼がよくやっていた「狩り」は、彼が本心に立ち戻ることの出来る唯一の場であったのだろう。

戻る

 

(注21)「運命」を感じた二人?

(注5)で指摘した二人の不可解な行動がここで語られる
イニョルドの語り口では短期間のうちにこれらの行動が見られる様な感じであるので、すごく二人の関係が異常なほどに不安定であるかに思われる。

ただ、この言葉が長期間にわたる行動の一切であれば、現実として、特に異常でも何でもないように思える。仲がよくても泣き笑いがあったり、喧嘩したりすることはよくあることであろう。
だが、そう考えるのも、この「非現実」の中ではまた「間違い」なのだろうが・・・

戻る

 

(注22)ゴローの髪の色に見る「時の流れ」

第1幕第2場では「こめかみの辺り」だけ白かったゴローの髪の毛が、ここでは「真っ白」になっている

(戯曲では明確には言われないが)時の流れを感じさせると同時に、ゴローの変節も暗示されているようにも思える

戻る

 

(注23)愛息に覗きをやらせるゴローの変節ぶり

まさに恥をも知らぬ程に嫉妬に狂ってしまった人間の姿しか見られない。

この場にもはや息子を思いやる強い父親の影はない。

戻る

 

(注24)オペラでは物議を醸し出した台詞

この一瞬「情事」を思わせる台詞は、オペラの初演時には、何と「破廉恥」であるとして台詞自体のカットを余儀なくされてしまったが、その後はちゃんとカットされずに公演されている。

しかし、この台詞が復活してからも、フランス音楽教育機関の最高峰であるパリ音楽院では、この台詞の存在から、「教育によくない」オペラとして、音楽院生に「観劇禁止」が布告されていたという。

戻る

 

(注25)ろうそくの明かりは二人の「希望」?

この二人の行動は謎に満ちているが、第2場のメリザンドの歌の歌詞に「ランプの光」が希望の象徴とされていることから、二人は悲しき「運命」の中にあって、ろうそくの明かりに一種の「希望」を見出そうとしていたのかもしれない。

戻る

 

(注26)「運命」を感じた?イニョルド

イニョルドの鋭い感受性が「運命」と、自分の言動がそれを悲劇の方向へと導いていることを感じさせたのだろう。
それ故にイニョルドは自分のやっていることに対して大いに恐れを感じ、おそらく第1場で知ってしまった「運命」の奔流を改めて思い出したに違いない。

戻る

 

(注27)ゴローの行動の結末は?

その後全く語られることもなく、ストーリー上にこの行動の影響が現れることもない

おそらく結局何もしなかった、あるいは確たる証拠も見いだせず、何も出来なかったのが実情だろう。

ドビュッシーはこの台詞を不要と感じたのか、オペラでは、ゴローはイニョルドを肩から降ろす時に「よし!」(訳し方によっては「降りろ!」)と言うだけである。
(オペラでは、このシーンの音楽は、強烈な緊迫感を伴った全管弦楽の強奏となる。音楽と台詞の整合性をとる上でもこの部分の改訂が必要であったのだろう。)

戻る