アメリカ大衆音楽抄史

〜西洋人による”発見”からバーンスタインまで〜

 西洋人による新大陸の”発見以後、多くの西洋人がアメリカ大陸に移住していきました。入植者達は先住民族の文化を排除しつつ、先祖伝来の独自の文化を築いていきました。その文化の中には、当然音楽も含まれています。

 それでは、ここではアメリカ合衆国に注目して、彼ら(自発的にせよ、強制的にせよ)移民の大衆音楽の歴史を辿ってみましょう。

<入植から奴隷解放>

 南アメリカ大陸で、民族のるつぼと呼ばれるのにふさわしいように人種の融和が起こったのに対し、北アメリカでは各地から来た移民たちはお互いに影響を受けながらも混じり合うことなく、先祖伝来の文化を継承し、現代に至っています。その様は、民族のサラダボールもしくは民族のモザイクと形容されたりします。

 さてアメリカ合衆国にはヨーロッパから多くの民族が入植してきました。しかし、もっとも多数を占めたのはイギリスから渡ってきたアングロ・サクソン系の人々でした(故にカナダも含めた北アメリカは、南アメリカのラテン・アメリカに対してアングロ・アメリカと呼ばれます)。

 アメリカに移り住んだアングロ・サクソン系の人々は、祖国で好んで歌われたバラッドを歌い継ぎました。これは20世紀の冒頭まで続きます。

 アイルランドやスコットランドからの入植者は、ジグリールといったダンス・ミュージックを持ち込みました。

 教会音楽もまたヨーロッパから持ち込まれました。

 ある意味でアングロ・サクソン以上にアメリカ音楽の発展に貢献したのは、アフリカ各地から奴隷として強制的に連れてこられた人々でした。アフリカ大陸における彼らの文化の中で、音楽は生活のあらゆる面に不可分に浸透していて、共同体を維持するために不可欠の物でした。その端的な例として、トーキングドラムがあります。彼らは太鼓の音で意思の伝達を行っていたのです。

 部族から切り離されて奴隷となったアフリカ系の人々(アフロ・アメリカン)は、奴隷同士のコミュニティーを再構成しようとします。そこで、故郷で行っていたように音楽と踊りで団結を深めます。まずは、祖国で行っていたものをほぼそのまま再現した部族ダンス。ソロが歌い、全員が歌い、これを延々と繰り返す、アフリカの伝統的なスタイルに基づく労働歌も生まれました。またこの頃、ハラーと呼ばれる個人で歌われる歌も見られました。

 ヨーロッパ系アメリカ人(ユーロ・アメリカン)達は奴隷達が結束するのを危険視し、歌や踊り、そして特にコミュニケーションの道具になる太鼓を禁止ましたが、やがてキリスト教の下でコミュニティーを形成させ、ユーロ・アメリカン社会に尽くさせるべきだと考える者が出始めます。こうしてアフロ・アメリカンの中にキリスト教が浸透していきます。こういった経緯の中、教会音楽との出会いから、アフロ・アメリカン・スピリチュアル(霊歌)が生まれました。

 一方で、アフロ・アメリカンの陽気な音楽を取り入れ、顔を黒く塗ったユーロ・アメリカンが演じる旅回りの音楽劇、ミンストレル・ショーも人気を博しました。

<奴隷解放〜第1次大戦以前>

 1862年、南北戦争のさなか、北軍のリンカーン大統領によって奴隷解放宣言が行われました。この結果、アフリカ系の人々は、独立した、自由なアメリカ人となったのです。解放後、スピリチュアルは奴隷時代の過去の歌として歌われなくなり、代わりに歌い踊って神を賛美するゴスペルが歌われるようになりました。

 しかし解放は同時に、一人で生きて行かなくてはならなくなったことを意味しました。、奴隷の共同体から切り離され、社会と直面する事を迫られたアフロ・アメリカンは、そこで、人種差別という新たな強敵と直面することになりました。しかも、もう帰るべき共同体はないのです。こうした不安、不満、あるいは恐怖や怒りの中で、アメリカの南部、ミシシッピ・デルタでブルースが生まれました。

 一方、南部でも都市部では少し事情が違いました。ルイジアナのニューオーリンズは蓄えた富を排出するためか、大きな歓楽街・ストーリーヴィルを抱えていました。ここでは、さまざまな遊興施設が、客引きのための音楽を必要としていました。このような状況の中で生まれたのが、ジャズでした。初期のジャズ奏者となったのは、多少とも裕福なアフロ・アメリカンや、アフリカ系でありながらフランス人の血を引き、1894年までは一部ユーロ・アメリカンの特権を享受していたクリオール(ルイジアナはかつてフランス領だった)らでした。このころのジャズは後に、ディキシーランド・ジャズと呼ばれます。ディキシーは集団即興演奏をその特徴としています。南軍の兵隊達が残した軍楽隊の楽器を手に、とにかく目立つ演奏をすることに命をかけたのでした。

 アフロ・アメリカンからはダンス・ミュージックも生まれました。ラグタイムブギウギチャールストンがそうです。アフリカでは音楽もダンスも、独立した芸能ではなく、全てが生活の一部だったのです。ダンス・ミュージックが生まれてきたのも必然的といえるでしょう。

 奴隷解放後、スピリチュアルの存在に気付いた北部の人々は、これを積極的に紹介するようになります。その結果、ユーロ・アメリカンの合唱の形式に編曲されたアカペラもしくは伴奏付のスピリチュアルが演奏会で演奏されるようになります。今日聞かれるスピリチュアルは、このようにして多分に西洋音楽化された物です。

 ユーロ・アメリカン社会では、フランスやイギリスからもたらされたオペラ、オペレッタや、上述のミンストレル・ショー等の流れをくんで、ミュージカルが生まれます。ミュージカルは当初は雑劇を含んだレビューや娯楽性の高いミュージカル・コメディーが主流を占めていましたが、後には演劇性の高いミュージカル・プレイが人気を集めるようになります。ニューヨークの中心・ブロードウェイを上演の場としてきたことから、ブロードウェイ・ミュージカルの名でも呼ばれます。ミュージカルの多くが映画化されていることは周知の通りです。

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロシアや東ヨーロッパなどから、迫害を逃れて多くのユダヤ系移民がアメリカにやってきました。アメリカの音楽界での彼らの活躍はめざましいものがあります。ガーシュインバーンスタインも彼らユダヤ系移民の子孫で、ともにミュージカルの世界で活躍したことは面白い符合です。

<二つの大戦の間>

 大戦勃発により、アメリカ軍は多くの戦力を必要とすることになりました。このことが、アフロ・アメリカンの社会進出の糸口になりました。それに伴い、デルタ・ブルースの破滅的な性格とは違った、アメリカ社会に、都市に順応しようという性格を持つブルースが現れました。シティー・ブルースです。

 大戦が始まると、退廃的なストーリーヴェルは閉鎖され、ジャズの中心はニューオーリンズからカンザスシティに移ります。その後もジャズは都市の盛衰とともにその中心をうつし、スタイルを洗練させていきました。そして、ダンス・ミュージックであるチャールストンやブギウギと出会い、ダンサブルな音楽に変容します。スウィング・ジャズです。楽器の編成は大きくなり、ビッグバンドと呼ばれます。このころから、ユーロ・アメリカンのジャズ奏者も見られるようになりました。

 ビッグバンドの全盛期を過ぎるころ、ミュージシャン達が数人のコンボを組んで実験的に始めた音楽がありました。テーマとコード進行、アドリブの順番等の約束事のみを決め、ソリスト同士アドリブを競い合うと言う物です。後にこのスタイルはビ・バップと呼ばれ、戦後のいわゆるモダンジャズのさまざまなスタイルの元となります。

 バラッドやジグ、リールなどの伝統的な民謡の流れをくみ、ブルースやゴスペルの影響も受けながら発達してきたユーロ・アメリカンの音楽は、1920代にヒルビリーと呼ばれるようになります。ヒルビリーとは南部のユーロ・アメリカンを指す名前で(映画「コン・エアー」で、主人公はこの意味で「ヒルビリー」と呼ばれています)、レコード業界で台頭しつつあったジャズやブルースが当時「レイス・レコード」と呼ばれたことに対抗して名付けられました。

 「ヒルビリー」はその後「カントリー&ウェスタン」、そして「カントリー」に名前を変えます。

 ユーロ・アメリカンの伝統的民謡からは他にもマウンテンミュージックブルーグラス、(そのものずばり)フォークなどが生まれます。

<大戦後>

 戦後、ブルースはアフロ・アメリカン達が自分たちの文化に誇りを持ち、新たな共同体の構築を目指す動きの中、リズム&ブルース、そしてソウル・ミュージックを生み出していきます。さらには、ファンクヒップ・ホップブラコンとさまざまな名で呼ばれるジャンルが生まれてきています(今はまた、これらのうちラップを除く全てをリズム&ブルースと総称する動きもあり、非常に複雑です)。

 ジャズの世界には他のジャンルとの融合の動きがありました。まず、ブラジルのボサノバに接近しました。それから、ロックのリズムが取り入れられました。こうした流れから、ジャンル間の融合ということでクロスオーバー(死語だけど)とかフュージョンと呼ばれる音楽が生まれました。

 一方、ブルースはユーロ・アメリカン達に取り入れられ、ロックンロールを生みます。このロックンロールとヒルビリーを組み合わせた物がロカビリーです。これらの流れの中から、また、イギリス等からの逆輸入等の経緯を経て、さまざまなスタイルのロック・ミュージックが生まれます。




(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団

(アマチュアオーケストラ,大阪市)