スピリチュアルとブルース

〜祈りの歌・嘆きの歌〜

<スピリチュアル>

 1665年、ヴァージニアに赴任した牧師モーガン・ゴドウィンは英国帰任後の報告書の中でアフリカ系の奴隷たちについて、「彼らが日曜ごとに踊りふける偶像崇拝のダンスほど野蛮で、反キリスト的なものはない」と述べ、一刻も早い教化・洗礼の必要性を説きました。当時のアフリカ系奴隷たちの間には、カリンダとかカレンダと呼ばれる舞踏音楽が浸透していました。そしてその起源は西アフリカのギニアあたりにあると言います。

18世紀から19世紀に入って、彼らの中にメヌエットやジークなどの西洋の音楽が取り入れられるようになっても、アフリカ由来の舞踏音楽は廃れることなく伝えられていきました。

そしてその「野蛮」な歌とキリスト教が結びついた時、スピリチュアルが生まれたのです。

(注:厳密には、スピリチュアルとは最初ヨーロッパ系の人たちが教会で歌った民謡風の音楽に付けられた名前です。しかし、ここで扱っているスピリチュアルは、アフリカ系の人々の間で歌われた音楽です。かつては、ニグロ・スピリチュアルと呼ばれましたが、ニグロの語に差別的な響きがあるとのことで最近では単にスピリチュアルと呼ぶか、アフロ・アメリカン・スピリチュアルと呼ぶなど、名称に混乱があります。ここでは、単にスピリチュアルと呼ぶことにします)

アフリカ系の人々へのキリスト教の布教は、18世紀ごろから盛んになっていきました。しかし、アフロ・アメリカンの奴隷たちのあいだに急速にキリスト教が浸透し、スピリチュアルが生まれたのは19世紀に入ってからでした。

この当時、キリスト教のプロテスタント界では大覚醒運動が起きていました。18世紀に始まったこの運動は、19世紀にはいると第2段階を迎え、大規模なキャンプ・ミーティングが開かれるようになります。大きな天幕を張ってともに泊まり込み、宣教師の伝道を聞き、祈り、信仰のあかしを行い、賛美歌を歌って信仰を深めていったのです。

初期にはキャンプ・ミーティングにアフロ・アメリカンが参加することを、ヨーロピアン・アメリカンたちは警戒しました。ですが、19世紀の半ばにもなると、多くのアフロ・アメリカンたちがキャンプ・ミーティングに参加するようになりました。このような場では、音楽の才能に長けたアフロ・アメリカンの独壇場とも言える状態が見られました。1850年にチャールストンのキャンプ・ミーティングを取材したフレデリカ・ブリマーは、アフロ・アメリカンたちが情熱的に大合唱をし、夜を明かす様を熱い筆致で描いています。記事では賛美歌と書かれていますが、時代的にみて、スピリチュアルが歌われていたことは間違いないでしょう。

スピリチュアルが歌われたのはキャンプ・ミーティングだけではありません。教会ではアフロ・アメリカンは一カ所にまとめられ、正式な賛美歌を歌わされましたが、彼らだけの集会になると、自分たちで作った歌スピリチュアルが盛んに歌われました(この当時の記録に、厳粛であるべき教会で、手をうち鳴らし踊りながら歌うアフロ・アメリカンたちに辟易するヨーロピアン・アメリカンの記載がしばしば見られます)。また、プレイズ・ミーティングといって奴隷たちだけでの賛美集会も開かれ、スピリチュアルが歌われました。

このように、スピリチュアルは集団の歌という性質を持っていました。また、リーダーがまず歌い、皆がそれに連れて歌うコール・アンド・レスポンス(呼応形式)のスタイルを持つものも少なくありません。

スピリチュアルが大流行した後、南部奴隷たちはスピリチュアル以外の歌を歌わなくなりました。農場主が疑問に思い尋ねたところ、ある奴隷は答えました、「他の歌を歌う必要がなくなったから」と。宗教も歌も踊りも、彼らにとってどれかひとつだけを取り出せるものでなく、生活のすべてがそこにあったのです。キリスト教を受容した彼らにとって、スピリチュアルは生活のすべてに関わる存在となったのです。

スピリチュアルの歌詞には、実に素朴なものが見られます。それは、こんな具合です。

Oh, Satan he come by my heart,

Throw brickbats in de door,

But Master Jesus come wid brush,

Make clear dan before,

My soul leap, my soul dance.

おお、サタン、彼が私の心のそばに来る、

ドアの中にレンガのかけらを投げ込む、

でもイエスの旦那がブラシを持ってきて、

前よりもきれいにする、

私の魂は弾む、私の魂は踊る。

一般的な分類法では、スピリチュアルは、「悲しみの歌(ソロウ・ソング)」と「ヨベルの歌(ジュビリー・ソング)」に大別されます。

「悲しみの歌」はどちらかというと個人の悲しみを歌った歌の性格を持ちます。叙情的でゆったりとした音楽が特徴です。

「ヨベルの歌」は奴隷解放の願いが込められた、集団的な性格の強い明るい歌です。ヨベルとは古代イスラエルで50年に一度開かれた祭りで、この時には奴隷の身分にあったものはすべて解放されたのです。

スピリチュアルの音楽的な特徴としては、1.シンコペーションの多用、2.ブルーノートの存在、3.コール・アンド・レスポンス形式の使用、4.即興性、などが上げられます。これらのほとんどは、アフロ・アメリカンの音楽の特徴として別項で取り上げたとおりです。また、豊富なボディーアクションを伴うところが、後のゴスペルになってさらに発達したことは周知の通りです。これも音楽と踊りが不可分であるというアフリカ文化を継承したものといえるでしょう。

1862年の奴隷解放以降も、アフリカ系の人たちはスピリチュアルを歌い続けました。しかし、やがてそれは奴隷時代の音楽であるとして次第に敬遠されるようになっていきました。彼らはより高らかに神を賛美する、ゴスペルを生み出していったのです。

スピリチュアルが再び脚光を浴びるのは北部のヨーロッパ系の人たちがこの音楽の価値に気づいてからでした。彼らが楽譜としてスピリチュアルを書き留め、後になってアフロ・アメリカンたちもまたスピリチュアルを歌うようになったのです。

知られている最初の出版譜は、1867年に北部から赴任した3人の男女が中心になって収集した歌による「合衆国の奴隷の歌」です。

これに次いで大きな働きをしたのが、フィスク・ジュビリー・シンガーズです(ジュビリーとは上に書いたヨベルの英語読みです)。解放奴隷の教育のためにテネシー州に設立された、現在のフィスク大学の前身であるフィスク校が、財政難を切り抜けるために設立した、解放奴隷を中心として構成された合唱団で、彼らにより、スピリチュアルははじめて「外部」の人の前で、舞台上で歌われたのです。その公演は大成功で、アメリカのみならず、ヨーロッパでも演奏会が開かれました。ただ、この時から、スピリチュアルは西洋音楽風の編曲を加えられることになったのです。

ニューヨークのナショナル音楽院出身のハリー・T・バーレイも大きな働きをしました。彼は在学中に、当時学長をつとめていたドヴォルジャークにスピリチュアルを紹介したことで知られています。ドヴォルジャークはこの音楽に大いに興味を持ち、直接の引用こそしていませんが、ここからインスピレーションを得て重要な作品を書いています。例えば交響曲第9番「新世界より」にしても、有名なスピリチュアル「流れよ、ヨルダンの川よ、流れよ」「モーゼ老は薔薇を売る」「緩やかに揺れよ、いとしの戦車」などからの影響が指摘されています。
シンコペーションの多用や第3音、第7音が半音下がっている点、5音音階的なメロディーなどに、その影響がうかがわれます(マジャール族等の東ヨーロッパの音楽の影響ともされますが、遠い異国で出会ったある種懐かしい音楽、に触発されたものであることは否定出来ないでしょう)。

バーレイは後にクラシック音楽の技法で、有名な「深い河」他のスピリチュアルをピアノ伴奏付のリートに編曲しました。1916年に出版されたスピリチュアル集は、その後の歌手たちにとって定番となっています。

20世紀になると専門的教育を受けたアフロ・アメリカンたちが、スピリチュアルの録音を数多く発表するようになります。決して芸術音楽として生まれたのではないスピリチュアルは、こうして合唱団の、そしてソリストの演奏会で取り上げられる音楽として、今も生き続けているのです。




(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団

(アマチュアオーケストラ,大阪市)