(C) 関西シティフィルハーモニー交響楽団
(アマチュアオーケストラ,大阪市)

ドヴォルジャーク・交響曲第9番
 ホ短調 「新世界より」

−作曲の背景−



1890年6月48歳でケンブリッジ大学で名誉音楽博士号を授与された時のドヴォルジャーク
作曲者
アントニン・ドヴォルジャーク

ジャネット・サーバー夫人
新世界への招待人
ジャネット・サーバー夫人

<”新世界”からの招待状>

 
 私がさきごろニューヨークに開設いたしました「ナショナル音楽院」の作曲科の教授に、どうかご就任ください。報酬は年額1万5千ドル。先生の曲をこちらの聴衆に披露する演奏会も、最低10回は開かせていただきます――。
こういったことが書かれた電報をドヴォルジャーク
(写真)が受け取ったのは1891年のことだった。差出人の署名は「ジャネット・サーバー」(写真)と読めた。

 承諾すればアメリカへの移住を余儀なくされる、この驚くべき申し出に、すでにプラハ音楽院の作曲科教授であり、皇帝からは勲章を、イギリスのケンブリッジ大学からは名誉博士号を授けられていた50歳は大いに悩む。
自身大きなやりがいを感じつつ取り組んでいた、母国での教育活動から離れることや、海の向こうの「新大陸」に渡ることには、もちろん不安も寂しさもあったものの、「年額1万5千ドルの報酬」といえば、そのときの彼の教授としての年俸の、実に10倍以上に相当している。
「サーバー」の説得も粘り強く、一向に諦める気配がない……。
ドヴォルジャークがついに契約書にサインし、妻アンナ、娘のオティリエと息子アントニーン、内弟子的存在であったコヴァルジクの4人を伴ってアメリカへと出発したのは、翌1892年9月のことだった。

当時のニューヨーク港
ドヴォルジャーク渡米時のニューヨーク港


<”新世界”の活気>

ニューヨークに着いた一行を、「自由の女神」像と、活気に満ちた港の風景
(上写真)騒々しい新聞記者たちの一群が出迎えた。

 1878年以後の20年間で国中の工場の総数と、そこで働く賃金労働者の数をそれぞれ2倍に増やし、結果として国内総生産を3倍にも増進させていた、この当時のアメリカ――。
この休息な成長には、企業が株式会社の形態をとることが一般化し、国民各層の投資活動も活発になってきたために、経営者たちも巨額な資金をより集めやすく、運用しやすくなっていた、という同時代の社会情勢が密接に関わっている。
“石油王”ロックフェラー(註1)“鉄鋼王”カーネギー(註2)、鉄道業界を支配したスタンフォードヒル(註3)、その名を冠した大財閥の開祖モーガン(註4)らは、そういえばこの頃に大活躍していた企業家だ。苦労の末に財をなした彼らに、大衆は明日の自分を重ね合わせたことだろう。


旧メトロポリタン歌劇場です。ニューヨークのブロードウェイ付近にありました。
旧メトロポリタン歌劇場


<芸術のフロンティア>

  時代の舞台の中央に躍り出てきた、彼らをはじめとする新しい富裕層は次に、自分たちの余暇を薫り高い芸術で飾ることを欲した
ニューヨークの名門・メトロポリタン歌劇場
(上下写真)は、その要望に応えて1883年に開館したわけであるが、そこで喝采を浴びていた花形はといえば、イタリア人テノール、イタロ・カンパニーニであり、スウェーデンのソプラノ、クリスティーネ・ニルソンであり、ドイツの名歌手リリ・レーマン(註5)だった。彼らを飾る衣装にしたって、ヴェネツィアやパリなんかからの取り寄せ物。コーラスもオーケストラもメンバーはイタリア人だらけで、それを束ねる指揮者もまた、ドイツ生まれの辣腕アントン・ザイドル(註6)、といった具合であった。
開館間もないこのアメリカのオペラハウスで、やたらな頻度でワーグナーが、それも原語であるドイツ語で上演されていたのも、そういった背景からはむしろごく自然のなりゆき、とさえ思える(註7)



クリスティーネ・ニルソン:当時の旧メトロポリタン歌劇場で活躍していた名ソプラノ歌手です。
ソプラノ歌手
クリスティーネ・ニルソン

アントン・ザイドラー:旧メトロポリタン歌劇場の辣腕指揮者で、新世界交響曲の世界初演もこなしました。
指揮者
アントン・ザイドル

旧メトロポリタン歌劇場内部を描いた銅版画です。当時から世界最大規模のオペラ劇場でした。
旧メトロポリタン歌劇場の内部

<”アメリカ国民主義音楽”への渇望>

 もっとも、「高価な輸入品」が幅を効かせていたのは、オペラのステージの上だけに留まらなかった。代表作「ピアノ協奏曲第2番」の初演をすでに1889年に済ませ、「当代随一の作曲家」とアメリカ人たちから称賛されていたエドワード・マクダウェル(1861〜1908)。彼は生まれこそニューヨークだが、勉強はパリとフランクフルト、音楽学校の先生をしていたとき、フランツ・リストに認められて世に出た、といった経歴の持主だったから、その音楽も大いにドイツロマン派風の体臭を漂わせるものである。
 「民俗的な旋律を編曲するだけでは『アメリカの芸術音楽』を創造することはできない。我々が表現しようと努めるべきは、アメリカ人を特徴づける若さ、生命力、楽観主義だ」「アメリカ」を音で描こうと志す若き音楽家よ、民謡や黒人霊歌(註8)を作品にそのまま引用するようでは落第だ、“アメリカ精神”を自前のメロディに乗せて表現せよ――
といった意味の、いかにも芸術家然とした高踏論がマクダウェルの信条であった(註9)
 ところが社会の他方には、黒人たちの歌と濃密な近親関係にあるフォスター(註10)の歌曲の大ヒット、という現実もあった。
これはアメリカ的な旋律の登場する、人なつっこい顔立ちを持った芸術音楽の誕生を待ち望む、数多くの人々の願いの反映ではないのか。
そんな「夢見る人」の中の1人に、ジャネット・サーバー(1852〜1946)もいた。
「アメリカ国民主義音楽」創造の夢に燃えるこの女富豪は、その実現への第一歩として「ナショナル音楽院」を旗揚げし、そして望んだ通りに、ドヴォルジャークをその看板教授として据えることに成功した、というわけであった。

文:上柿泰平(パーカッション)